まえがき 「音世界への扉」

はじめに

1957(昭和32)年。新聞を開くと眼に飛び込んできたのは求人広告です。山水電気で技術職数人と企画宣伝職2人を募集と。新卒既卒は関係なし。僕は22歳で、どうしても入社しなければならない事情が生じており、これは運命だと思いました。

2月のある日、東京・杉並区和泉の山水電気株式会社。入社試験の会場には、仕事の場で鍛えられた一癖も二癖もありそうな面構えが何人もいます。面接会場の会議室に入ると、正面には背広を着た3人の面接官が並び、僕のわきにはナッパ服を着てノートを持った人が座っている。工場長だろうか。僕が企画部門の志望であることがわかると面接官は「山水電気の広告をどう思うか?」と聞いてきます。

当時の広告は、ラジオ技術誌にマッチ箱くらいのサイズで“トランスのサンスイ”とか書いてあるだけなんです。
「せっかく素晴らしい製品を作っているのに、広告が全然ダメです。下手くそで見てはいられない。これじゃいつまで経っても山水電気のことなんか誰も認知してくれませんよ」。もっと多くの言葉でこき下ろしたかもしれません。

さすがに面接官もムッとした様子で、「だったら君、どんな広告ならいいんだ? いったいどんなアイデアで創るんだ!?」とすごい剣幕で喰ってかかってきました。

ここで「いや、それは言えません。僕にはすごい広告を作るアイデアがあるけど、いまそれを話したらアイデアだけ盗られちゃって試験の方は不採用でしょ。教えるのは採用されてからです」と生意気なことを言ってしまったんですね。

そうしたら、さっきから横にいたナッパ服のおじさんが突然顔を上げて「面白い。採用」と漏らしたんです。
 「君はこの会社に入りたいのかね」
 「入りたいから試験を受けに来たんです」
 「よし、取りあえず合格だ。二次三次面接は来なくてもいい。ただし、山水電気を有名にするにはどうしたらいいか、君が考える広告の原稿を1週間後に持って来なさい」

即日臨時社員登用で新設の企画部員となりました。
誰だと思ったナッパ服。この人が山水電気の創業者、菊池幸作社長だったんです。これは後々まで僕を左右する出会いだったのですが、このときすごい広告の妙案などありませんでした。

こうして社会人生活のスタートを切って、山水電気には結局30年勤務します。その後、デンマークの名門フォノカートリッジメーカー・オルトフォンの日本法人オルトフォンジャパンの初代社長にスカウトされ20年。これを卒業してからは楽隠居、好きなオーディオ三昧をとしよう考えていたら自分の会社・前園サウンドラボを設立することになり、Zonotoneブランドの高級オーディオケーブルを製造販売して現在に至ります。

私の半生はオーディオに終始したものですが、ここではその最初の山水電気時代を語っています。自分のモットーである「仕事は遊び心で 趣味は命がけで」を読みものとしてざっくばらんに編んだつもりです。オーディオへの熱が全体を貫いていますが、極私的日本オーディオ史にもなるようにまとめたつもりです。また、社会に出ていく若い人にとって何らかのヒントになれば幸いです。

当時を思い出すにあたり記憶だけで語った部分もあるので、勘違いがあればご指摘ください。ありがたくお受けします。また必要に応じて各種関係図書を参照しましたが、とりわけオーディオ製品などについては『ステレオサウンド別冊SS世界のオーディオ「サンスイ」』に、会社のあゆみについては貿易之日本社発行の『サンスイ』によるところが多くありました。御礼を申し上げます。