第九章「JBL」

苦労するほど喜びは大きい。
メイド・イン・ジャパンの
傑作エンクロージャーは
本家を唸らせた。

サンスイの輸入業務 

組子スピーカーSP─100発売から4年後の1970(昭和45)年、私は商品企画部長となり、その後に宣伝部長、そして1982年にJBLスピーカーなどを扱う輸入品販売部長となります。ここでは日本のオーディオ界に、また私自身にとっても特に大きな意味を持ったスピーカー、JBLについてお話ししましょう。

山水電気はオーディオのメーカーでありながら、同じ分野の外国の音響製品を輸入し、総代理店としての販売活動を続けてきました。1965年に結んだJBL総代理店契約は、通常オーディオ系の輸入商社などが行うものですから当時は特異なケースでした(後にレコードプレーヤーのトーレンス、テープレコーダーのウーヘルとも提携)。

JBLとの提携、というよりサンスイが海外メーカーとの提携に踏み切るには、次のような理念を持っていました。「製品の完成度が高く、世界のオーディオ界で定評のある製品であること」「製品に対する姿勢が一貫しており、基本品質重視の経営理念で製造されているブランドであること」「日本の環境下では生み出せない特徴を持ち、日本のユーザーが満足する製品であること」。

こうした基本認識に立って輸入業務を行ってきました。また、海外製品の取次やケアの業務を超えて、そのブランドならではのノウハウをより適切にユーザーに伝えようとつとめてきました。同時に相手のメーカーに対しては、日本固有の環境から発するトラブルについて、当社の施設・設備をフルに利用した対応ができること、適切な情報を提供できることをアピールしてきました。

マーケティングの面でも、日本のオーディオマニアの志向、ライバル製品の傾向など、輸入商社よりも適切なサジェスチョンが行え、当を得た対応を促すことができると考えました。もちろんビジネスなので採算面も考慮しなければなりませんが、常にユーザーとそのブランドの中間にあって、ユーザーに対するあらゆるサービスを行うことを第一義に考えていました。

JBLという“黒船”

JBLは1965年、サンスイが総代理店契約を結んだ最初の海外ブランドです。しかしその数年前からJBL製品は輸入商社の手で日本にも紹介さていました。設立は1946年、JBLというブランド名が付くのは1955年のことです。当時の会社の規模は小さく、限られたマニアの間のみで知られている存在でした。というのも当時はオーディオ市場の規模自体が小さく、ましてコンポーネントの需要は微々たるものでしたから。

しかし契約後、サンスイは各地でレコードコンサートなどを行い、そこで初めてJBLサウンドに接した多くのユーザーは、それまで聴いたこともなかった等身大の音像に驚き、演奏家の姿が眼前に迫ってくる強烈な個性に圧倒されたのでした

JBLの源流を戦前にたどると、ハリウッドのトーキーを支えた劇場用音響会社ウエスタンエレクトリックにたどりつきます。ハリウッドの音はカリフォルニアの空のようにクリアなサウンドで、それはヨーロッパ音楽の伝統とは切れたものです。JBLは、カッチリとして腰の強い低音、切れ味明快な中音、ブライトな高音。つまりは飛びぬけてパワー感のある音で、こういうサウンドキャラクターは国産品にはありませんでした。契約時における代表的な製品は超弩級のパラゴン、大型のオリンパス、中型のL101ランサー、ブックシェルフのL88ノヴァ、L77、L44などで、音もとびぬけていればデザインもいい。でも「如何せん、価格が高くて手が届かない」という声が多かったのもたしかです。そこでJBLサウンドの魅力を少しでも多くの人々に届けようという考えから20cmフルレンジユニットLE8Tを組子のバスレフ箱に入れたSP─LE8Tを世に送り出し、ユニット1発だけのシステムが8年ものロングセラー商品となります。また、サンスイの技術陣は一連のJBL製品から多くのものを吸収しました。

傑作ユニットを使った“混血”スピーカー

JBLスピーカーの魅力の一つに「能率の高さ、鳴りっぷりの良さ」があります。60年代前半は大出力のアンプも少なく、それだけにパワフルなJBLはよく目立ち、マニアの間では使いこなしてみたいスピーカーの1つでした。

その端的な例が38cmの傑作フルレンジユニットD130です。

山水電気創立と同じ1947(昭和22)年に、創業者である天才エンジニア、ジェームズ・B・ランシングの手で設計されたD130はJBLの看板ユニットとしてマニアから広く支持を得てきました。山水は1972(昭和47)年の末に、このD130をバックロードホーンに組みこんだSP─707Jと、30cmフルレンジユニットD123をフロアタイプのバスレフに装着したSP─505Jを商品化します。型番のJは日本製の箱を意味しており、いわば日米混血のスピーカーシステムです。

当時は各社ブックシェルフタイプの全盛期であり、山水でもSP─LE8Tをふくめ、SP─100の流れを汲む一連の組子シリーズが大ヒットとなっていました。しかし、アンプをはじめその他のオーディオ機器も著しく進歩したこの時期には、システムのマルチチャンネル化などグレードアップをはかられるハイマニアの方も増加する傾向にあり、本格的な据置型スピーカーシステムの需要も高まっていました。また、JBLユニットの愛用者も急増していました。ところがユニットを自由に入手できても、エンクロージャーは良いものがなかなか手に入らない状況で、ユーザーは自作でそれを解決していました。

そこで山水では、JBLユニットの中でも傑作と言われる D130と、よりフラットな特性を持った D123を、本格的な大型エンクロージャーに装着したサンスイSP─707Jと同505Jの開発を企画しました。前者はJBL往年のバックロードホーンC43やC40(ハークネス)を下敷きにもうひと回り大型に設計したものです。両者の前面を組子(オリンパスのような七宝継ぎ)にしたのは私の提案によるものです。

JBL社というのは、エンクロージャーに対する考え方がユニット以上にきびしくて、SP─707J、505Jの製品化にあたっては、あの巨大な試作品をわざわざ飛行機でロサンゼルスまで運び、首脳部の承認を取り付けると同時に、技術部門の厳格なテストを受けました。このときに見たJBLの工場は広く、山水の数倍はありました。こちらは製造許可がもらえると信じて 2機種をアメリカまで運んだのですが、あちらのスタッフは“アジア人があやしい試作品を持ってきた”という雰囲気です。

サンスイSP─707J、505Jの材料には“理想的な振動版”といわれる北欧製の樺桜材合板を用いて、内部には6本もの補強角材を使用した本格的な構造になっています。つまり、大入力にもびくともしない強固さと、微妙で繊細な音の変化を余すところなく表現するJBLユニットの良さをフルに引き出すよう、苦心の設計が行われていたのです。厳正なテストの結果は..「素晴らしいエンクロージャーだ。JBLの製品より良いくらいだ」。この評価が伝えられるや、プロジェクトメンバー一同、大感激したのがいまでも思い出されます。

余談ですが、私はこのときに707Jを増強するホーンレンズの“ハチノス”(正式な型番は537─500)を買って帰りましたが、何年か後により大型のプロ用モニタースピーカー、JBL4350を導入したためにハチノスはデザイナーのH君に譲りました。

D130とD123はフルレンジタイプなので、そのままのシステムでもJBLサウンドの神髄に触れることができますが、さらに好みの高域ユニットをドライバー1本で後から追加装着することによりグレードアップすることが可能な構造になっています。具体的には707Jには075やLE175+HL87ホーンを加える、505JにはLE20を加えることでワイドレンジを確保する。つまり、手づくりの味を楽しみながら完成度を高めてゆける、ユーザー参加のできる商品に仕立てました。圧倒的な能率の高さ、ジャズに聴く鳴りっぷりの良さはJBLならではで、マニア待望の商品化でした。JBLの熱狂的支持者でもあるオーディオ評論家の岩崎千明さんがこのシリーズを積極的にPRしてくれました。

さらに1974(昭和49)年には、JBLのプロ用フルレンジユニットをバスレフの組子エンクロージャーに装着したモニターシリーズを企画開発して発売に踏み切ります。こちらは20cm径の2115を装着したモニター2115、25cmの2120によるモニター2120、30cmの2130による2130というブックシェルフ型トリオで、高域ユニット追加によるワイドレンジ化にももちろん対応していました。

これらもまったく同じ思想から製品化されたものです。この時も事前にJBL社で首脳部との話し合いが実施されました。しかし、スタジオやホールで使用すべきプロ用ユニットが家庭使用対象のコンシューマー市場で販売されるケースなど世界広しといえどもどこにもなく、なかなか首を縦に振らせることはできませんでした。それでも日本のオーディオ市場の進取性や何事も突き詰めようとするマニア気質を長時間かけて説明し、やっと了解を取り付けました。プロ用のユニットやモニタースピーカーシステムが一般のオーディオ店で入手できる。そんな国は、日本以外ちょっとないでしょう。この混血スピーカーにも七宝格子を採用し、好評をもって迎えられました。