第三章「山水電気入社 広告制作」

どこにもない広告を作った。
誰もの目につく広告を作った。
個人的なオーディオ装置作りに励んだ。
レコードコレクションに血道をあげた。

恩人、三橋達也さん

「山水電気を有名にするにはどうしたらいいか」

生意気な口をきいたものの、すごい広告のアイデアなど持っていたわけではありません。えらいことになったと思いました。

帰って劇団仲間と相談すると、「山水電気って一般には無名の会社だから、有名人を上手に活用してはどうか」と言ってくれた者がいました。そこで、演劇学校で2回レクチャーを受けた三橋達也さんを思い浮かべます。劇団の人々とは違った、映画スターならではの華やかさがありました。レクチャーを受けたときは知らなかったけれど、日本オーディオ界の草分けである高城重躬さん(たかじょう・しげみ オーディオ評論家、音楽評論家)を先生と仰ぐオーディオマニアであることを、後に雑誌で読んだので知っていました。ちょっと緊張しての三橋邸訪問です。

「三橋さん、実は僕、山水電気に入ろうと思っているんです。広告を作る仕事をやるのですが、申し訳ないけれどモデルになってくれませんか」とお願いすると、「ああ、いいよ」と快諾です。「山水、すごいもんな。あそこのもの、大好きなんだ。キットでも何でも組み立ててきたんだ」と乗り気です。

それではぜひお願いしますと言って、僕のカメラで撮らせていただいて、「広告の文章ですが、こういう趣旨で書いていいですか」「ああ、いいよ。受かるといいな」となって、1週間後、会社に持って行きました。

社長に提出すると、さあ、これがいいかどうかわからないんですね。なにしろ従来のものはラジオの技術誌に小さく野暮ったく「トランスのサンスイ」というブランド名が記してあるだけですから。社長は問います。

「この広告、どうするんだね」

「これはラジオ雑誌に載せてもしようがないから一般誌に出しましょう」

「どういう本に出すのかね」

「まず『文藝春秋』。週刊誌はいま勢いのある『週刊読売』、音楽雑誌は『音楽の友』と『レコード芸術』。取りあえずこの4誌に1ページのグラビアで出してみたらいいと思います」

「ああ、そう。よくわからんが、とにかく1回出してみよう」となりました。

私の入社は3月で、2週間後に広告出稿。しかし1回目の広告が実際に掲載されたのは7月です。それまでの社内の雰囲気は冷たいものでした。しかし社長のところには広告の反響がいち早く集まり、業界の会議でも“新風を吹き込んだ”とほめられていたらしいのです。そんなことなど知らない私は広告が出る日を待ちました。

そうしたら反響がすごかった。会社始まって以来の問い合わせで、結果として秋葉原族以外のインテリ層にも浸透し、山水電気のイメージを一新しました。

第2弾は三橋さんに紹介していただいた女優の司葉子さんで、あとは“友達の輪”の要領で読売巨人軍の長嶋茂雄さん、俳優の石原裕次郎さんと続きます。芸能、スポーツ、文化、政治などの分野でサンスイ製品を使っていただいている方、ほめてくださる方、サンスイ製品が欲しい方に登場してもらい、音について、オーディオについて語ってもらいました。こちらで書かせてもらったコピーも少なくありません。

順不同ですが、石原裕次郎さん、フランキー堺さん(コメディアン)、高橋圭三さん(アナウンサー)、歌手の水谷良重さん、東郷たまみさん、巨人軍の王貞治さん、鉄道研究家の鷹司平通さん、長唄の芳村伊十郎さん、作曲家の服部正さん、音楽評論家の堀内敬三さんといった方々はオーディオ的にもすぐれた耳をお持ちなのだと痛感しました。

このシリーズ広告、現在なら芸能事務所や広告代理店がやるような仕事です。それを個人で、直接交渉で実現してしまった格好ですね。

どうしてできたのか? こちらの側からすると、やっぱり演劇学校での2年間の俳優修業とかドラマツルギーといった専門的な勉強がものすごくマーケティングに役立ったんです。どうやって観客を沸かすのか、いかにして人をひきつけるのか、入場券をたくさん売るのか、演劇の世界で習ったことを自分の頭の中で経済活動の方に切り替えながらやっていく。そういう作業がうまいこと当てはまったのです。

もう一つ、権利関係もふくめ社会的な体制が整っていない時代だったこともあるでしょう。世の中にはレシーバーやスピーカーが登場し、日本のオーディオが大衆化していく走り、日本オーディオ界の夜明けでした。山水電気もトランスなどのパーツメーカーから総合オーディオメーカーに飛躍する時代でした。まだ世の中には良質な製品が少なくて、真面目に努力したことが全部結実する時代だったことがやはり大きいでしょう。

後日社長から「1年分の広告予算を1ヶ月で使いおって。君は試用期間の3ヶ月でクビにするつもりだった」と聞かされましたが、結果を出せたのでなんとか山水電気の社長室企画係になれて、社長は広告の続行を決断したのでした。

広告の余波で 

このシリーズ広告は「有名人とハイファイ」「楽しきかなハイファイ」「私とステレオ」とタイトルを変えながら、3年あまり続きました。写真は安上がりに済ませようとすべて自前のレオタックス(国産のライカコピー機)で撮りました。小学生のときに卒業の写真集を手伝わされて、暗室に入って見よう見まねの作業をしたことが活きたわけで、音楽と写真の趣味はほとんど一緒に始まっている格好です。

三橋さんに始まり、長嶋茂雄さん、王貞治さん、石原裕次郎さん、徳川夢声さん(マルチタレント)、今東光さん(作家)、有吉佐和子さん(作家)ら、ほんとに多彩な方々と接することができました。

特に、臣籍降下直後で新聞記者に包囲されていた島津(久永・貴子)さんご夫妻をこの撮影で訪問し、親しくオーディオ談義を交わしたことは今なお心に刻まれています。あのときは新婚旅行からお帰りになったばかり。こちらはサンスイのステレオを聴きながら仲睦まじいご夫妻の姿を撮ることができ、新居を取り巻いていた大勢の報道カメラマンを羨ましがらせたのでした。

また、この仕事を通じてオーディオ装置一式を揃えてほしいという依頼が来ることも多く、個人的にもスターたちとの付き合いが深まりました。

そのひとつが石原裕次郎さんです。これは余談ですが、1965年の山水・JBLの提携以後のこと、彼のお弟子さんにあたる人が経営していた四谷のステーキ店がJBLのシステムを導入することになり、裕次郎さんは「腹に響く低音」を望み、業者が出した見積もりが300万円だったと言います。そこで友人たる僕は「150万円でやりましょう。これでも儲けが10万円出ますから」と買って出ました。

アンプはサンスイ、スピーカーはJBLの15インチ(38cm)を2基天井にはめ込んで作りました。裕次郎さんは「うるさくないのに低音が出る。素晴らしい装置を作ってくれた」と喜んでくれ、こちらも大満足です。そうしたら当の業者が菊池社長のところに怒鳴り込んできたんですね。これには困りまして、結局「裕次郎さんの親戚がやったことだからしかたがない。もう二度とさせないから」という社長の助け舟でお引き取り願った一幕もありました。

入社してプライベートでは…

萩の映写技師・Kさんのお宅ではLPレコードの音に衝撃を受けましたが、その当時の僕は再生装置を持っていなかったからレコードもありませんでした。それが山水に入社して「これでいよいよオーディオ装置を心おきなく揃えられるし、レコードも遠慮なく買えるぞ」とうれしくなって、使えるお金はほとんどレコードにつぎ込みました。

当時、新宿三越の前に「マルミレコード」という輸入専門のレコードショップがあって、そこの親父さんはすごい人だった。「このレコードは絶対買いだよ」というのを手に入れると間違いない。あのころ月給が8000円ほどだったが、レコードは非常に高価で1枚1700円くらいしたと思います。当然、食うものも食わないで買いました。親父さんのご好意に甘え、後払いで購入したレコードも多かった。

そのレコード。1年に入手できた数は10枚がやっと。モダンジャズが多くて、レーベルでいうとブルーノートやインパルスあたりがメインでした。ビッグバンドではカウント・ベイシーなどが愛聴盤です。石原裕次郎さんからは貴重な輸入盤を何枚も頂戴しました。裕次郎さん登場の広告に使ったシェリー・マン・トリオの「マイ・フェア・レディ」もその1枚で、大事にして何回も何回も聴き込んできました。

現在所有するレコードはおよそ1万枚。中心はクラシックですが、ジャズ、シャンソン、タンゴもあります。好きなレコードは何かと尋ねられると困ります。アンセルメ指揮のスイス・ロマンド交響楽団、フリッツ・ライナーのシカゴ交響楽団もよかった。もちろんモーツァルトも。北村英治のクラリネットや菅野沖彦録音のレコードも素晴らしい。歌謡曲だと西田佐知子のレコードとか。

つまり好きなレコードとは、感動するレコード、“ああ、生きててよかった”と思うレコードのことです。

ともあれ僕にとって音の趣味は命の源泉です。心を豊かにし、人間力を向上させてくれるもの。無我夢中で打ち込める趣味に巡り会えたことは人生最大の幸せです。そのエネルギーは、結局仕事に対するエネルギーを高めてくれます。さらにオーディオの会社に入ったことで、「仕事は遊び心で、趣味は命がけで」が自分のモットーになっていきます。