第八章「組子といえばサンスイ 」

スピーカーシステムのデザインは、
サウンドを象徴した。
ビッグスターの起用は、
メーカーのステイタスを象徴した。

組子スピーカーの外観について 

スピーカーシステムのデザイン開発は、そのシステムの持っている、あるいは表現しようとしている音のキャラクターと、デザインのイメージを一体化することが条件となります。このため製品の企画コンセプトを明確にして、初期の段階からエンジニアとデザイナーは、緊密な打ち合わせとディスカッションを重ねながら、デザインと音の融合につとめ、一体となって商品を完成させてゆくシステムをとってきました。

組子のパターンは日本古来のもので、木瓜菱、七宝継ぎ、青海波、梅鉢等々30種以上もあり、いまも日本の伝統工芸として一部の人たちにその技法が伝承されています。サンスイでは木瓜菱、七宝継ぎの2パターンを使用、これはモダンにもトラッドにも表現できるものです。

SP─100からはじまる組子スピーカーは、音響的には重量感のある板材をガッチリ組み合わせたエンクロージャーに、ユニットを組み合わせて音造りをしました。その一方で、デザイン的には大きな木のブロックをくり抜いた一体感のある音響箱のイメージを表現する手段として、表面にネットに代わる木製の組子を考えたわけです。

このため組子は、あくまでキャビネットと一体感のあるものでなければなりません。手づくりの檜材を生み合わせた素材を、天地・左右の板(ウォールナット)と同色に染め上げるため数か月の試行錯誤を繰り返し、1963年頃やっと染色を完成させたものです。樹脂分の多い木材をムラなく染色することは、まったく手探りの状態であったし、手づくりの組子を量産ベースに乗せることも初めてのことでした。

浅丘ルリ子さんの広告 

さらに幸運に恵まれたことは、スタートまもない「夜のヒットスタジオ」(フジテレビ 1968年11月4日.)のスポンサーとなって開始した、浅丘ルリ子さんのCFが大ヒット。「情念の世界、組子のサンスイ」と、大いに衆目を集めることができたことです(宣伝機種はセパレートステレオのAPS─900)。

当時ドル箱スターであった浅丘ルリ子さんは、CMに引っ張り出すことのできない看板女優でしたが、オーディオが取り持つご縁で親しくさせていただいた石原裕次郎さんのご厚意あふれる決断によって、秘蔵っ子をお借りすることができたのです。天下の大女優と本来地味な専業メーカーの結びつきの意外さ、ヒットの影響力と言ったら当初の想定をはるかに超えるものでした。ちなみに、同時期に某大手電機メーカーが浅丘さんに提示した額は当方の4倍だったとか。これは見事に奇蹟を生んだ事例だったと思います。

コラム: APS─900キャンペーンの後

浅丘ルリ子さん起用のAPS─900「情念の世界 組子のサンスイ」は大衆キャンペーンとして大成功を博した。ここから大量の注文が押し寄せてきた。積極的なマーケティング努力が功を奏し、大衆消費財メーカーとして発展するためのパスポートを自ら手中にしたといえる。 

このとき高級イメージを維持しつつ消費財メーカー、総合オーディオメーカーに転換できる道筋はできていたのだが、1971年に山水電気は突如としてセパレート型ステレオからの撤退を表明してしまう。この時点で、サンスイのセパレート型ステレオは登場して10年目だった。もう完全な成熟商品になっていたが、初期にはあった革新的な斬新さやステータスシンボルの意味はこの時点でなくなっていた。また1971年は不況で、セパレート型ステレオよりもコンポーネントの需要が増してきていたという事情もあり、採算性の悪いセパレート型ステレオからは撤退となったのだった。 

思えば、1964年から70年にかけては売り上げ規模で10倍の成長をみる大躍進の時期で、文字どおり「サンスイの黄金時代」となった。売上高でいえば、1971年の263億円がピークとなった。

SP─100大ヒットの余波

組子第1号機SP─100の成功要因は、第一に組子の斬新さと高級感とにあるが、オーディオ面では25cmウーファー、スコーカー、ホーン型ツイーターを組み合わせた3ウェイで価格も2万1000円とコストパフォーマンスが抜群だったことも大きいでしょう。音質面ではクラシック偏重の優等生的音作りとは一線を画して、ブックシェルフ型らしからぬ鳴りっぷりのいい逞しい音で人気を得ました。また国内だけでなく、基地内の駐留軍兵士の間でも大ヒットとなったのです。 

もう一つ、発売前年の1965年3月に山水電気は、米国の名門JBL社の日本における販売の総代理店契約を結び、直ちに輸入販売を開始しています。販売提携とはいえ、世界最高といわれるスピーカーを取り扱うことが山水の技術陣を強く刺激したのはたしかで、契約に先立ってJBL製品を検討したスピーカー担当技術者はこんな言葉を残しています。 

「先にカタログを受け取ったわけですが、驚きましたね。マグネットの重量とボイスコイルの直径しか表示されていない。これでは手のつけようがないということで実物に接したわけですが、ここでまたびっくりしました。LE8Tでしたが、20cm口径のスピーカーに5cmφのボイスコイル、音を鳴らしてまたびっくりです。とにかく、なんとかこれに追いつきたいと全社的に発奮したわけです。JBLのキャビネットではパイプダクトが謎でした。どうしてこんなパイプでバスレフ効果が出るのかと考え込みましたね。とにかく、ホーンのカットオフにしても計算に合わないことが随分あるのですが、そうした超越した姿勢というものが私どもに大きな影響を与えたといえます。それに良いものを作るのに物量を惜しんではいけないという考え方は私どもにもありましたから、びっくりだけではなく共鳴するところも大いにあったわけです」

SP─LE8T

SP─100からは同50、200、300などさまざまな派生機種が生まれ、フロアタイプや無指向性、壁掛け型など多様な組子格子のファミリーを形成しました。 

最初のSP─100(1966年)はジャズ指向の元気な音のスピーカーです。クラシックを専門に聴くには多少粗削りで雑味もありますが、それ以上に鳴りっぷりがよかった。それは他の機種にも言えます。 

オーディオ評論家の瀬川冬樹さんは、サンスイのあるスピーカーについてこんな批評をしています。「フィデリティを上げてソースをきちんと出すタイプと反対で、むしろスピーカー自体で積極的に一つの音色をこしらえて聴かせるタイプ。これはサンスイの音の求め方、オーディオの追求の仕方にもあてはまるような気がする。これをハイファイ的に対してオーディオ的と呼ぶなら、サンスイはどちらかといえば、後者に属するメーカーだということができるだろう」と。瀬川さんにはよく応援してもらいました。また早くに亡くなった小川正男さんはジャズが好きで、「初歩のラジオ」や「無線と実験」誌上で積極的に応援してくれました。 

さて前記ファミリーの中でJBLの傑作20cmフルレンジユニットLE8Tを組み込んだSP─LE8Tにふれておきましょう。 

既に記したように、サンスイのアンプに黒を採用してから当社の製品はジャズとの親和性が強まります。そしてSP─100がそうですが、同時期に発売したSP─LE8Tがこれをさらにバックアップした形になります。当時の国産スピーカーでは、パイオニア、コーラル、オンキョーなどがクラシック志向(瀬川さんの言葉に従えば、ハイファイ的)でしたが、質実剛健のサンスイは戦略上ジャズを志向します。ましてJBLを買う人ならほとんどがジャズ志向でしたから。社内でこのジャズ指向を引っ張ったのは、JBLと総代理店契約を推進した伊藤瞭介さん(後に三代目社長となる)でした。 

そしてLE8Tを組子のブックシェルフ箱に組みこもうと立案し動いたのが伊藤さんと私です。これはJBL&サンスイの“日米混血”第1号機。また、SP─100と同年生まれで外観もほとんど同じ、100の大ヒットのバックアップになっていった、という専門家のご指摘もあります。 

このスピーカーの登場は1966(昭和41)年。JBL社と契約を結んだ翌年、にデビューしています。LE8Tを組み込んだオリジナルなブックシェルフ型としてはJBLのランサー44があります。当時は珍しかったバスレフのパイプダクトのノウハウをマスターし、音質面でもオリジナルと甲乙つけがたいところまで追い込んだ製品です。20cm1発なのに、価格は25cm3ウェイのSP─100の倍以上(ただし、アメリカでのランサー44より安い価格設定にしました)。それだけ音がすごかった。国産にはない音で、これをオーディオ店でアピールするときは、名録音で知られるオスカー・ピーターソン・トリオの「ウィ・ゲット・リクエスト」のB面1曲目「ユー・ルック・グッド・トゥ・ミー」がよく使われ、レイ・ブラウンによる深々とした弓弾きのベース音に「20cm一発でこんな低音が出るのか!」と驚かせたものでした。 

それゆえこれを手本とした20cmユニットが各社から競って出たほどでした。柳家小三治師匠のように、この組子スピーカーによってオーディオの道にのめり込んだ方は少なくないし、音楽評論の分野では中村とうようさん、佐藤秀樹さんも長く愛用されていました。大型スピーカーをメインの装置にしていても「室内楽やボーカルはSP─LE8Tの方がよかった」というマニアもおいでだったでしょう。8年にわたるロングセラーでした。 

そしてJBLサウンドはサンスイの音にとって、年ごとに大きな意味を持っていくことになりますが、それは次の章でお話ししましょう。

コラム: 総合メーカーへの脱皮は

ここで質問をしましょう。 

「1960年代後半、“ステレオ御三家”と言われたサンスイ、トリオ、パイオニアがなぜ総合オーディオメーカーに脱皮し、大きく羽ばたいていけたのかわかりますか?」 

「そりゃ秋葉原や大阪の日本橋の電気街で精力的に売りまくったからでしょ」という答えがありそうですね。でも違います。 

「正解は、アメリカ第七艦隊です」 

「えっ!?」と思いましたか。 

時はベトナム戦争です。第七艦隊は太平洋を忙しく動き回っています。何十日か経てば、補給で横須賀に入港してきます。9000人の乗組員が上陸です。まず艦長には高級アンプをプレゼントして仲良くなります。乗組員の多くが基地のPX(購買部)で人気の高いサンスイのアンプ、トリオのチューナー、パイオニアのスピーカーを買う。それも2組。貯めた月給で一気に買うわけですね。当時は「空母1隻でアンプが1000台売れる」と言われたものです。1000台というのは、日本国内なら完売に1年はかかるものなんです。 

しかし、艦隊の寄港日というのは軍事機密に属します。 

そこで3社はそれぞれに米軍専門のセールススタッフを貼り付け、基地側の担当者には飲ませ食わせ、ゴルフをさせて入港日の情報をいち早く聞き出します。それが本社に伝わると、それっとばかりに工場の生産ラインをストップさせ、1ヶ月間米軍向け商品の生産に切り替えます。なぜなら売れ筋が日本国内とPXでは全然違うのです。たとえば国内ならプリメインアンプやFMチューナーが人気ですが、アメリカ人が好むのは両者を一体化したケバケバしいほど派手なデザインの総合アンプ(レシーバー)です。あるいは所狭しとユニットを配置した輸出専用のスピーカーです。これらはサンスイとしては輸出専用商品であり、ここで大いに稼いで、3社(それにアカイのテープレコーダも)は発展しました。 

オーディオは本来平和産業の典型であるはずですが、こういう一面もありました。そして早い時期にアメリカに渡ったサンスイ製品は何年かして修理のためにサンフランシスコの契約代理店に持ち込まれるわけですが、そこはJBLの代理店でもあったことからサンスイとJBLのつながりができていったのです。