第四章「忘れられぬ広告」

思い出の広告がある。
話題を呼んだ広告がある。
影武者としてのコピーの数々。
さしずめコピーライターのはしりだった。

当時の広告の代表的なものをいくつかご紹介しましょう。ご本人の面目をよく捉えているようなら大成功なのですが。広告で使われた写真はいずれも私が撮りました。

第 1回の広告 三橋達也さんの代筆コピー

ロケ、撮影所、ステージと毎日多忙な生活の中で、安らぎと希望を与えてくれるものは、何といってもハイファイです。

もともと機械いじりが好きなものですから、この道も既に五年余り。仕事の休みの時などは友人のアンプを引き受け、終日配線図とコテに親しんでいます。

山水のハイファイアンプとトランスは入門した時から愛用を続けていますが、最近発売された一連のFMアンプは期待通りまったく素晴らしいものです。

現在イギリスのステントリアン製スピーカー、フェアチャイルド社のカートリッジ、山水のハイファイアンプで最高の音をエンジョイしています。(PR-330が写り込んでいる シリーズ広告には本人のサインも入っている)

第3回の広告 長嶋茂雄さんの代筆コピー

僕等のやっている野球は、職業的にいっても大変特殊なものであるうえ、非常に体力を使うものですから、ゲームが終了しますと、疲れがドッと出てきます。そういうときに、疲れをいやそうとレコードを聴いたのが、僕のハイファイへの馴れ染めで、それ以来、やみつきになっちゃいました。

一口にハイファイといっても、ピンからキリまでありますが、音にすっかり敏感になった今日では、よほど良い音のアンプでないかぎり、昔のように“ウーム”と感心することはなくなりました。

この点、わが家の山水のハイファイアンプは、満点というべきで、いつも僕の耳を無条件で喜ばせてくれています

スランプ状態とか、それに似たものがプレーの上に現れたら、さっそく家に帰ってハイファイを聴き、じっくりと気持ちを落ち着け、柔軟な気持ちで次の試合にそなえるようにしていますが、効果はまさにてき面で、この間の天覧試合に良いあたりが出たのも、この山水のハイファイアンプが役に立って、平静な気持ちと、かぎりないファイトを持って試合にのぞめたからであると思います。

これからは丁度あつい盛りで、苦しい日々だと思いますが、一層精神的にも充実して、ファンの皆様方のためにも、毎日のゲームにバリバリと打ちたいと思っています。

第5回 石原裕次郎さんの代筆コピー

ボクの好きなものの筆頭に、旅行と温泉がある。若いものに似合わぬと冷やかされたり、ヘェーと妙な感心のされ方をしたりするが、好きなものは好きだからしようがない。

それに必然的につながる民謡、これがまた大好きだ。デキシーやモダーンジャズも決して嫌いな方ではないが、三味線や尺八で切々たる哀感を秘めた古謡の魅力にはとても抗しきれない。

ラジオがジャズと民謡をやっていれば、ちゅうちょなく民謡の方へダイヤルを合わせてしまう。

今度、山水のステレオアンプを手に入れたが、こいつが実に素晴らしい代物で、ジャズであれ、民謡であれ、そのものズバリの音を再生する。

昔は(といっても高校生の頃であるが)友人と二人でわざわざ山中温泉まで、本場の山中節を聞きに行ったり、正調おけさ節を聞きに佐渡に行ったりしたこともあるが、これはまだハイファイの発達しない頃のことで、最近のように録音や再生技術が向上してくると家で民謡を聞いても、充分雰囲気を楽しむことができる。

殊にビールでもあけながら、山水のステレオアンプで心ゆくまで民謡をタンノウするなんざあ、ちょっとこたえられない味がする。

広告にご登場いただいた方々(順不同 敬称略)

(芸能)
三橋達也、司葉子、石原裕次郎、フランキー堺、三遊亭小金馬、東郷たまみ、松本幸四郎(先々代)、徳川夢声、高橋圭三、水谷八重子、岡田茉莉子、水ノ江滝子、水谷良重、宮城まり子、藤山寛美、笹森礼子
(スポーツ)
長嶋茂雄、王貞治、水原茂、三原脩、朝潮関夫妻、柏戸剛
(文化人)
石原慎太郎、サトウハチロー、石坂洋次郎、山田耕筰、堀内敬三、島津久永、鷹司平通氏夫妻、藤原義江、芳村伊十郎(長唄)、有吉佐和子、北條誠、五十嵐新次郎、横山隆一、服部正、江藤俊哉、近藤日出造
(政治家)
石田博英

手許にコピーが残っているものとしては以上のものがありました。ただし残念ながら、当時の有名人の方々のネガは会社で起きたボヤで焼失、手許にはわずかな紙焼きしかありません。

山水電気のあゆみ(2)

マニア向け商品を志向する
1958(昭和33)年から59年は、日本のオーディオのターニングポイントとなった時期だった。

まず、ステレオレコードが世に出回るようになった。AMラジオの二元放送でステレオというものを楽しんでいた時代から、ステレオががぜん身近になり、オーディオの業界は劇的に変化していく。

初期のステレオセットはアンサンブル型(コンソール型)ともいう一体型の装置で、これが家庭普及型ステレオの基本形となっていった。1つの筐体にスピーカーが左右1組、レシーバー、レコードプレーヤーが組み込まれたものだ。

しかし山水はこれには着手しなかった。理由は3つある・・・
「①家電メーカーとは違って、山水はマニア向け商品を志向したこと」..言葉を替えれば、オーディオ専業3社は戦前の電蓄時代のノウハウがなかったし、レコード会社というソフト産業がグループの近くにはなかった。そのためマニアックなハイファイ機器を作ることに舵を切った。

「②当時は3社とも、アンプ・プレーヤー・スピーカーの全製品を一括しては手掛けていない単品メーカーであり、セットもののメーカーとしての実力はなかった」

「③そこで3社が志向したのは、家電メーカーが得意とする国内市場よりも海外市場、特にミリタリー市場の開拓だった」……こうした違いが製品開発上、決定的な差を生むことになる。

つまり海外市場に対しては、アンサンブル型の輸出は形態上も物流上も考えられない。日本には存在しない海外市場向けコンポーネント製品を開発する必要に迫られたのだった。

例えば、前園青年入社の1957年は日本ではFMの実験放送段階だったが、アメリカでは本放送がとっくに始まっている。だから高性能レシーバーの生産が喫緊の課題だった。しかも競合相手は欧米の名門で、日本側には基礎技術的な課題が山積していた。

そういう事情から「高級品で行こう。フィッシャーやスコットの製品を超えよう」と菊池社長は指示を出した。未だ満足な国産ハイファイは完成していないものの、「普及財よりもマニア商品」「セットメーカー・総合メーカーよりもコンポ企業として生きる」「国内市場よりも輸出市場」という方針が固まっていった。


ミリタリー市場開拓

ところで、戦争中の日本は自由に好きな音楽を楽しむことができなかった。

それが敗戦とともに解放となる。クラシックの場合はレコードからとされるが、ポピュラー音楽の伝播は駐留米軍の影響が大きかった。米軍放送と生演奏によるものだ。その駐留米軍将兵というのは、音楽を愛し、お金も持っている手近なユーザーだった。

昭和30年代の日本市場ではハイファイ機器のユーザーそのものが少なかった。山水電気でも全機種で月100台が関の山。当時は国産のアンプを使うこと自体“勇気”のいることだった。それでも誠実に、技術面では凝ったアンプを作りつづけた。山水がアンプ事業で黒字を出すのは1962(昭和37)年になってからである。そこまではシェア40%以上を誇るトランスの利益でまかなってきたのだった。だがこれにしても、アンプは月150台程度の出荷にしかならない。なにしろアンプは大卒の初任給の3〜4倍の値段がしたのだから。そのためアンプ事業を支えてきたのは国内市場ではなくて駐留米軍を窓口とするミリタリー市場となった。山水は国内市場もなんとかしたいと考えていた。広告キャンペーン「有名人とサンスイ」が始まって大反響を巻き起こした背景にはこうした事情も色濃くあった。

ミリタリー市場は、最初に米軍基地のホビーショップから始まった。

サンスイのプリメインアンプは前園青年入社の1957(昭和32)年、輸出専用機の生産を早くも始めている。厚木、横田、立川などの基地では月に30〜50台を売っていたが、昭和30年代後半から月300台から500台と売れ、この勢いを駆ってアメリカ市場の直接開拓に乗り出していく。

ミリタリー市場というのは一般市場とは違って特殊な構造にある。間接費も物流費も要らないから流通上の集中性がある。購買(調達)本部を通じて日本から世界に空輸されるという特色を持つ。ブランドが確立し、製品の基本性能が高いものほどよく売れる。ベストセラー商品が価格の安さで売れるとは限らない。

この結果ミリタリー市場は、受け入れられた数社の寡占市場としての性格が濃い。一般市場のように多数のメーカーがひしめく過当競争にはならない。実績のないメーカーが食い込むには非常に難しい独特な市場だったのだ。