第十章「プロの音をわが家に」

サンスイにとってJBLは神様だった。
JBLにとって神様はサンスイだった。
メーカーにとってのレファレンスは、
マニアにとってのレファレンスにもなった。

プロモニター4300シリーズ登板 

JBLには一般家庭用スピーカーの他にプロフェッショナルシリーズがあります。業務用に設計された一連の商品群で、ホール、劇場、スタジオ、放送局、ディスコティック、野外PA、楽器用などプロ用途を目的としています。しかし日本では相当数のマニアがこれらプロ製品を家庭用として自分の装置に取り入れています。日本ならではの特色ですね。

1960年代に入って、JBLにはプロフェッショナル部門が設けられ、まずプロ用のスピーカーユニットが開発されます(前記モニターシリーズはこれらを用いたものです)。プロ用のスピーカーは一般家庭用とは違ってユーザーが特定の人ではありませんし、現場での要求もシビアなので大音量で鳴らし、その酷使に耐えるものでなければなりません。次は、そうしたユニットを箱に入れ、システム化した大型の“スタジオモニター”スピーカーが開発されることになり、注目の4300シリーズが登場します。それはあくまでもJBLの音に徹しつつ、新しい時代にマッチするようデザインされたものでした。

その第1弾が1971(昭和46)年に発売のスタジオモニター4320です。その低域ユニットはパラゴンやオリンパスに使われたハイコンプライアンス型38cm径ウーファーLE15をプロ仕様にした2215B、高域にはLE85のプロ仕様である2420ドライバーユニットと2307ホーン+音響レンズ2308という2ウェイで、クロスオーバー周波数は800Hz。これをモダンなグレー塗装のバスレフ箱に装着したものでした。

それまでの代表的なスタジオモニターは、中域の情報を重視したアルテック604Eという38cmの同軸型ユニット(これも基本設計はランシングが行った)をバスレフの612Aエンクロージャー(俗称・銀箱)に装着したシステムで、プロが録音・再生に用いる定番の道具でした。ただし時代とともに録音の周波数レンジが広がっていき、レンジの狭い604では対応が難しくなっていきます。4320はこのシステムに比べると、同軸型特有のピンポイントな音像定位ではやや劣るものの、豊かで軽い低音の量感とエネルギーで大きく勝り、そのシャープで新鮮なサウンドは新しい時代が求めるレンジ感、ロックをはじめとする新世代の音楽にマッチして、世界のスタジオのスタンダードとなっていきます。さらに3ウェイ、4ウェイのモデルが次々登場していきます。1970年代から80年代にかけて、4300シリーズは各国のモニタースピーカーに大きな影響を与えていきました。

また、サンスイのアンプ開発におけるレファレンススピーカーはこのJBL4320で、これがどう鳴るかでアンプの音を決めていきました。それが43シリーズの進化とともに3ウェイの4330に交代し、さらに4ウェイになって周波数特性がよりフラットになった4340、4345へと進化していきました。そして72年以降は4350Ⅱに固定化されました。

サンスイでは4320をはじめとして、このシリーズを一般ユーザー向けの目玉商品に設定しますが、JBLサイドは「日本人というのは、プロが現場で使うスピーカーを一般家庭に持ち込んで使うのか?」と懸念を隠しません。そこを日本人マニアの気質、傾向を説いて納得させ、ひときわ人気の商品群にしました。とりわけウォールナット仕上げの4ウェイシステム4343WX(1976年)は、JBLらしい魅力を残しながらワイドレンジでヨーロッパ音楽にも十分対応する洗練されたサウンドが評価されてマニア憧れのスピーカーとなり売れに売れます。おそらく日本が世界で一番売れた国でしょう。ただし4343は膨らみ気味になる低域のコントロールが難しく、あこがれて購入はしたものの泣く泣く手放したマニアも少なからずおいででした。これを修正したのが4344で、さらに4400シリーズなどJBLのスタジオモニターは発展していきます。

サンスイとJBLのパートナーシップは1969年、M&AによりJBLがハーマン資本の傘下に入ったことで終わります。しかしここで得た成果は多く、SP─G300などサンスイのスピーカーにはJBLに強く影響されたことが音・デザインにうかがえます。

山水電気におけるJBLの存在 

山水電気では、JBL部門の売り上げがすごくて、売れる製品の個数についてはサンスイ製品(アンプ類、スピーカー、レコードプレーヤー、その他)の方が多かったにしても、国内の売上高についてはJBLの方が多かった。半分以上を占めていたのだから「JBLはサンスイにとって神様」です。しかしJBLにとっても、以前の日本代理店では1億から2億円。それがサンスイでは桁が違う。しかもアメリカ本国よりもよく売れたのですから「JBLにとってもサンスイは神様」でした。

日本で一番よく売れた高級モデルは4343ですが、トータルで4万本とも5万本とも言われています。日本では各メーカーがこれを買い込んで、自社の開発におけるレファレンススピーカーとしていました。そのせいでアンプ、プレーヤー、カートリッジの技術が急速に発展したのです。基準の音となって発展を促したスピーカーだったということですね。そんな事情も手伝っての4343、アメリカでもこれほどのヒットはありませんから、向こうのスタッフは驚いていましたね。さらに言えば、パラゴンの販売にしてもアメリカでは週に3台程度ですが、日本では最大20台。こんな国は世界で日本だけでしょう。

それだけサンスイの力が大きかったんです。

その背景としては、オーディオの風土の違いがあったと思います。すなわち日本のオーディオマニアは、コンポーネントでオリジナルな組み合わせを選びます。そのためマニアの人数は多かった(一説では5万人とも)けど、ハイファイ製品総体の普及は少なかった。アメリカの場合は逆に、マニア数では日本より少ないものの、多数の一般人がハイファイ装置であるレシーバー(総合アンプ)を大概持っていた。さほど高価でないその装置でレコードやFM放送で音楽を楽しんでいたわけですね。

コラム: 私の愛機4350

私のスピーカー遍歴を語ると、入社前は大阪音響のスピーカーで、昭和40年ごろはYL音響のマルチSPでハザマの78cmサブウーハーを超低音用に用いました。昭和50年以前には、SP─707Jに中域がJBLのLE375ドライバーと537─500ホーンレンズ(すなわちハチノス)、高域が同じく2405という組み合わせ。これに加えてSP─LE8Tをサブのスピーカーとして使っていました。 

昭和50年というのは、東村山市にわが新居を建築し、本格的なリスニングルームも完成した時期です。ここで最初の一時期導入したのは4320でした。それが4350にとって代わります。 

この4350とのストーリーは新宿ショールームの章で後述しますが、あそこで使われ、SLの音を超大音量で再生して壊れた4350は、JBL販売担当のSさんが修理復元してくれて昭和50年10月、東村山のわが家に来たのでした。 

このSさんがJBLを広めてくれた力は大きかった。プロ用ユニットをサンスイのエンクロージャーに入れたモニターシリーズの2120、2125、2130はSさんと二人で話し合って製品化したものです。また、デザイン部長Wさんの下にいたデザイナーのH君もJBLを広めるのに尽力してくれました。 

不幸にもSさんは昭和53年に東京晴海のオーディオフェア会場でフェア前日の準備中に脳溢血により倒れ、数日後に亡くなったんです。私が立会人でした。

山水電気のあゆみ(4)

優良会社から危険な会社になった苦難期

サンスイの売り上げのピークは1971(昭和46)年の263億円、しかし1972年から1975年にかけての業績は年を追うごとに下降していく。JBL販売の華々しい成果があらわれ、マニアの間で評価が高まっていくことと裏腹の右肩下がりだった。 

1972年が233億円、1973年が198億円、1974年が237億円で、経常利益となるともっと生々しい。1972年が17億円、オイルショックの73年には6億4000万円、1974年に2億5000万円と、売り上げに対する収益性の低さが目立ちはじめた。 

1972年は減収減益だが、まだ体質的には健全だった。1973年になると、1月にはベトナム戦争のパリ和平協定締結、3月の米軍撤退完了もあって、PX(米軍基地の購買部)の売り上げが激減するという大ショックが生じた。同時に、ステレオセットから撤退したことにより国内営業所は29から14に縮小している。海外市場ではテクニクス(松下電器)など大手家電の進出が著しく、サンスイは苦戦を強いられる。製品構成の多様化、消費者ニーズの大衆価格製品移行という不利な側面もあり、ここからの5年間は固定費比率の上昇と人件費の上昇に苦しむことになる。 

「ミリタリー市場から他市場への転換遅れ」「国内販売網の縮小」「組織集中による子会社合併と固定費・人件費の増加」という三重苦に加え、1973年には「労使関係のこじれ」という社内の不協和音までがすべて噴き出してしまう。それは高度成長の6年間に播かれた種がことごとく裏目に出た企業の典型例として、ビジネスの業界では話題になるほどだった。 

1974年に入るとオイルショックによる不況で、工場スタッフの一時帰休などで一部上場企業としては深刻な状況になる。このとき思い切った減量経営や不況対策をやっておけば1975年からの数年間はムダにならなかったと言われている。オイルショック後に、大手が行ったレベル以上の不況対策が行えないまま 数年間過ごしたことが再建の遅れた原因となったとされる。 

そこへトドメのような「覚せい剤事件」が発生した。この事件は山水電気労組の委員長が覚せい剤を所持しているという嫌疑を会社側が捏造したもので、裏では暴力団が動いていたとも言われる。とにかく一部上場企業としてはありえない出来事だった。人一倍潔癖な菊池幸作社長は即座に引責辞任を表明し、1947年以来27年にわたる経営の座を降りることとなった。 

意外なことに、この事件はブランドイメージには表面上悪影響を与えなかった。サンスイが輸出比率の高い企業だったこと、国内営業所を11にまで縮小して戦線をコンポに絞り込んだことによる。この結果、サンスイ製品にダメージは及ばず、菊池氏の進めてきた高忠実の音の再生という姿勢に対する評価は変わらないということを逆に物語ることとなった。

藤原新社長の経営方針

新生サンスイの藤原慶三新社長による第一の仕事は、減量経営の実施と、高コストの改善、円高時代の収益体質からの脱却だった。つまり、売り上げ拡大に先立って基礎体力を付け直すことだった。だが社内の派閥争いもあって一挙に経営刷新ができず、売り上げ拡大から着手することとなった。 

1975年は“世界的家電不況”といわれた年であり、ここから3年間は国内外の販売網の拡充と販売見直しが積極的に行われた。 

1974年2月、新社長は日経産業新聞に答えて「来年末には国内の特約店を現在の1200店から1800店にまで拡大したい」「JBL製スピーカーの取扱店も100店から200店に拡大し、その売り上げも70億円から98億円に高める計画だ」「コンポーネントでは高級品のアンプが目玉。システムコンポはまだ機種数が揃っていないので、今後デザインなどを統一した上で拡大していきたい」「海外では、販売店を側面から援助するとともに、市場調査などに当たる」「最近は消費者の好みや考え方の変化が激しいし、多様化している。情勢を的確につかめるよう、幅広く、しっかりしたマーケティング体制を築きたい」といったコメントをしている。 

菊池社長時代は「製品をして語らしめる」ために企業は存在した。納得のいく製品づくりに企業活動を奉仕させることがサンスイらしさだと考えられた。新しい経営陣の経営理念は「サンスイらしさを企業化する」ところに企業存続の意味があるとされた。サンスイの持っている最良の経営資源と、最悪の条件下におかれた経営体質の両方のバランスを取る経営理念としてはこれしかなかったとも言われる。

 

バランスの回復と合理化

山水電気はハイファイ機器、特にアンプの創造開発で第一人者の道を歩んできた歴史を持つ。そこではトランスやアンプづくりの理念史としての色彩が濃く、アンプ以外の製品づくりでは相当進出が遅れていた。新しい経営体制ではこの社風を否定せずに、むしろサンスイらしさをいかに事業に転換できるかで再生に取り組んだ。 

1975年以降のサンスイ再生への道は「出遅れた経営合理化の試み」だと冷ややかに受け止められ、苦難の道のりとなった。しかし製品面では、ひとつのピークをなすDCアンプAU─607/707を1976年秋に発売し、その後普及版のAU─307、最上級機AU─907を送り出し、それぞれ対応するFMチューナーとスピーカーをラインナップしたことで営業面からも意欲が上がった。 

また、取引先をピーク時の900社から350社程度に絞った。これにより売り上げは落ちたものの、在庫増と不良債権発生の根を断つことができた。この結果、劇的な体質改善につながり、1981年10月期で累積赤字は一掃された。1982年からはT常務が国内営業担当に就任、海外のM常務とともに販売面での二人三脚を組んだ。M常務は1980年にサンスイUSAの社長に就任して陣頭指揮、急速に在庫を減らすことに成功していた。この年は、180億円超という山水電気はじまって以来の「国内売り上げ」を達成した。これは1975年のちょうど2倍になる。こうして国内販売体制が拡充され、輸出依存の体質から脱却できたのだった。