第七章「組子格子のスピーカー」

ひとつの商品ではない。
ひとつの日本文化だ。
その評価を耳にしたとき、
それまでの苦労と苦心を忘れた。

サランネットに代わる保護材を探せ 

ここまで述べてきたように、山水電気はアンプを母体とするメーカーです。それが総合オーディオメーカーになるには、次の段階として本格的にスピーカーと取り組む必要がありました。菊池社長は言います.. 

「ステレオは単なる音響器具に留まることなく、それ自体が鑑賞にたえる一つの家具でなければならない。だから既成の概念を打破し、キャビネットにも改良を加えて北欧のそれのように孫子の代までも伝えられる立派なものを作り上げたい」 。

具体的には、スピーカーユニットを保護する前面のサランネットが日に焼けやすく長持ちがしない。傷んでも交換ができないし、保護の実効性という点でも最適なものとは言えなかった。そのため「サランに代わるもの、もっと価値があり、持つ人が満足する保護材を考えよ」という社長命令さえ出ていました。

当時スピーカーは、ユニットを単体で求めて自作する傾向がまだ残っていました。また、マニアの間ではモノラル時代以来の大きなフロア型の人気が根強く、一般的なサイズのブックシェルフ型システムはこれからという時期でした。

ステレオのブックシェルフ型スピーカーに使える丈夫な保護材。私たち商品企画の担当は頭で考え、足でさがしまわるあけくれが続きます。そんな1964(昭和39)年の春、東京の晴海で開かれた国際見本市の会場を訪れた私は、ある商社のコーナーで足がくぎづけになります。それは、「ルームスクリーン」という名称で出品されていた障子大の組子(くみこ)格子、アメリカ向けの組子スクリーンでした。日本の技術がアメリカで花開くのは面白くないと思った一方で、これをスピーカーに採用しようと思い付いたわけです。 

組子というのは、特殊なノミとカンナでしゃくり(彫り模様)をいれた木の桟を組み合わせて幾何学的な模様を作り出す日本伝統の手工芸です。遠くは平安、鎌倉時代から神社仏閣の門扉や書院障子、源氏襖、それに欄間などに使われ、宮大工、細工師のあいだにその技術が伝承されてきた貴重なものです。

私は探し求めていたサランに代わるものにやっとめぐり会えた思いで、よろこびを抑えながら、その場に居合わせた組子職人の住所と名前を手帳に書き記しました。

組子には秘伝の厚いベールが 

キャビネットには日本の伝統工芸を生かそう! 社長の決定で思い切って組子を取り入れることになります。組子を用いたスピーカーには1960年発表のJBLオリンパスなどの先例がありますが、これは何十万円もする大型フロアタイプのシステムです。手作りの組子(七宝継ぎ)でも生産量が限られているので問題はない。しかしサンスイが目指すのは生産性を重視した量産普及型のブックシェルフタイプ。自ずとクラスが違います。

下請けの契約をするため、私はデザイン課長とともに群馬県下のある町に組子職人をたずねます。ところがそこには、想像もしなかった現地の複雑な事情が待ち受けていました。

第一に組子職人というのは固い絆で結ばれ、師弟関係が厳然と守られていること。したがって、なんであれ師匠を通さないことには話は一歩も進みません。これが人と人、家と家のあいだに存在しているのです。だから伝統的な名人芸の色濃い家具、たとえば書院障子や源氏襖(ふすま)のための組子作り、または仏壇の欄間作りならばいいのですが、新しい量産物相手の仕事なると抵抗が大きくてえらい難事になるのです。

第二には組子の作り方にそれぞれ秘伝、奥義があって、外部からは容易にうかがい知ることができないことでした。ことばではいろいろ話してくれるが、作る工程は絶対に公開しません。50〜60種類もの模様があるが、この秘伝のベールは思ったより厚いものでした。それから1年半、筆舌に尽くせぬ苦労が続きます。

なかでもいちばん困ったのは、組子が手づくりで量産できないところへもってきて、職人のあいだに製作工程の機械化..量産化をきらう傾向が強いことでした。“仕事が荒れる”という致命傷から身を守る細工師の本能に近いものでもあろうし、伝統を守るものの誇りと意気地がそうさせるのでしょう。頼りにした現地の親方や職人の方々に猛反対され、結局協力は得られませんでした。

染色法が決まるまで数えきれぬほど試験した 

組子というものは一本一本に時間をかける手づくりの芸術品だから量産するなど論外という話です。しかも1ヶ月に数枚あがるのがやっとということで納期も不確定。このため組子はとびっきり高価。とても普及型のステレオセットなどにつけられるものではなかったのです。また材料のヒノキ材も年を追って入手難になってきました。産地には近代企業にはなじみにくい因習が多すぎたのです。

せっかくのアイデアも暗礁に乗り上げたか。周囲には「組子とは特異すぎるのでは」と製品化への反対がなくはなかったのです。しかし、こんなことでは後に引かない若さと、社長が目標に掲げる「個性の商品化」を実現しようという情熱が私たちをして困難に立ち向かわせました。組み立てを行う“手”なら工場にはいくらもある。要は機械で手づくりと同様な、正確で美しいざぐりがロスなく、しかも素早く出来れば解決なのです。プロジェクトチームによる昼夜を分かたぬ猛烈な闘いが始まりました。

組子を製品に取り入れるのに発生する問題はすべて企業の側で解決するわけです。組子の染色についても、古来からの組子技術には、生地のまま使う建て前から染色の技巧は含まれていなかったのです。結局、素材の条件を同じにするため、桟を会社で量産することにしたのですが、実際に染めるとムラが出てくるのです。そうなると木の材質をうんぬんするより、ムラのない染め方を開発しなければなりません。かくして染色に取り組むこと三ヶ月。数えきれぬほどのテストをくり返して、ようやく歩どまりのよい染色法を発見しました。

スタッフと生産チームの努力は報われ、ついに本職の方々にあれほど手づくり以外に作る方法はないと言われた組子の量産化に成功。1965年10月、会社はこれをセパレート型ステレオAPS─530に組みこんで初めて国内に発表します。それは品質チェックの厳しさではトップの座にある山水電気のQC(品質管理)レベルをも難なくパスする見事な出来栄えでした。

コラム: 組子のインサイドストーリー

染色法は何度もくり返し試験して決めたわけですが、具体的にはまず木の材質から選抜しますが、これは長野県と台湾から良質のヒノキを導入することで結着。染色の色、浸け方、乾かし方で試行錯誤です。組子は桟の段階で塗装液に浸けて、そのあとで組みました。サンスイとしては、誇りを持って組子の機械作りを推し進めることにしたのです。

JBLのオリンパスやランサー101といったフロア型は工芸品の組子を日本から輸出してアメリカで装着していました。これらの高級品は少しの生産でもいいが、サンスイのブックシェルフスピーカーは国内と輸出を合わせて毎月1000本以上出荷することが義務付けられていました。

工芸品の組子では大量に作れないし、歩留まりも悪いから、ここは機械で作るしかない。木瓜菱(※)パターンの組子にしたのはシンプルで機械化に適していたからです。最終段階では長野県の二木(ふたつぎ)木工舎に協力してもらいました。組子プロジェクトが失敗に終わっていたら、私は会社を辞めていたかもしれません。

組子職人は群馬県前橋市に集中しています。これまでのノウハウを見せてくれた組子協同組合の人たちとはやむなく決裂することになり気まずい思いが残りましたが、こちらとしても機械作りをしないことには成り立たないプロジェクトでした。上記の主旨を記した日本経済新聞の記事を私が書いた後、群馬県の組子協同組合の人が会社を訪れ、「スピーカーに装着したものは組子とは言えない代物である」とはげしい抗議を受けましたが、工芸品と量産を前提とする工業製品とはどうしても違ってしまうのだと割り切ることにしました。

ちなみに1966年には組子スピーカーの第1陣としてSP─100、200、LE8Tと3機種がデビューし、デザインはそっくりに統一されていましたが、JBLの傑作フルレンジユニットLE8Tを装着したSP─LE8Tだけは別の下請けに発注していました。つまりJBL用のキャビネットは念入りに作っていたので、当然その分もコスト高になったわけです。

組子が生産量の7割を占める

次は、一挙に世界発売を開始。まずは東南アジア、アメリカ、ヨーロッパなど世界各地に輸出し、1966年6月には事実上の組子システム1号機となるSP─100を国内発売。販売店からの最初の反響は、個性が強すぎるという批判もあって賛否相なかばでしたが、一般にはうけるという私たちの確信はゆるぎません。結果はヒットどころかホームランとなり、組子はサンスイのスピーカーの代名詞になっていきます。

事実、組子を採用したステレオセットは、キャビネットに重みと風格を加え、組子のうら側にはる布地は薄くて目の粗いものですむので、高音域の透過効率をも犠牲にしないという一石二鳥の効果を生んだのです。

この自信は輸出スピーカーシステムの好評でますます深められました。東洋ブームという背景があったかもしれませんが、やわらかい木の手づくりの味が喜ばれて注文が殺到し、またたく間に生産量の70%はこれで占められるようになりました。サンスイのスピーカーと組子は不可分の関係になったのです。

さらにステレオセットにも、その後各社が組子そっくりの模様を木やプラスチック成形品でとりいれるようになったことで、音響機器にはちょっとした組子ブームが到来。優秀性が裏書きされた格好になりました。

余談ですが、この大ヒットを記念して、菊池社長はスピーカーと同じ組子紋様(※木瓜菱=もっこびし)を所沢入間街道に面した旧工場(埼玉事業所)の壁面いっぱいにデザインし、メモリーとされました。

今でも苦しい時、迷いの出た時は「木瓜菱の壁に聞け」が私の教訓になっています。

コラム: 組子への思い

組子は古くは組木といい、国宝に指定されている長野県諏訪郡の諏訪神社の桟唐戸、日光文昭院霊廟拝殿の欄間、京都二条離宮、銀閣寺の書院障子、北野天満宮の門扉など著名な建物に見ることができます。当時はまだ工作用具が開発されていなかったため、宮大工がノミでコツコツと長い年月をかけてきざんだもので、古代花形組子とよばれるものが多い。

一般的なものでは東京浅草の料亭「今半」や目黒雅叙園、丸の内東京会館などの欄間や障子にこれが取り入れられている。こうした作品は細身で比較的新しい紋様であり、これも美しかった。また横浜三渓園臨春閣の「花鳥の間」のそれはねじ組子。千利休のデザインになるもので、聚楽第の北殿にあったものが桃山城中に移され、それがまわりまわって三渓園に落ちついたといういわれを持っています。

いずれにしても、組子は平安、鎌倉の昔からうけつがれてきた日本の伝統工芸の一つなのです。先人の創意工夫と努力の結晶が桟の彫りこみの一つ一つに刻みこまれていて、言うに言われない味をいまに残しています。

この高雅な味を、ステレオを通じて広く茶の間にお届けできたことに、私は大きな感慨を得ていました。

もうひとつ、組子の発表会では自分が撮ったスライド(現在ならさしずめパワーポイント)が活躍、大成功を収めたことも忘れがたい思い出です。

発表会当日の定刻、ホテルニューオータニの大宴会場はいっぱいのお客様です。照明が落ちた中、私はスライドのコマを送りながら、組子の歴史、その魅力、古い作品に見る日本人の感性のすばらしさなど、組子のすべてをひたすらに訴え続けた。もう無我夢中で、気づいたときは予定をずいぶん超過していたのですが、灯りがつくと静かな会場から一斉に拍手が湧き起こり、確実にお客様がわれわれと同化してくださったことが判って、感激がジーンと胸に滲みわたりました。

後日、ご出席の方々から「あれほど強烈な印象を受けた新製品発表はなかったよ。ふつうは商品の説明に終始するものだが、あのときは間違いなく偉大な日本の文化が語られ、創造が語られた。数々の組子のスライドはまだ鮮烈に焼き付いている。いや、お世辞ではなく本当に素晴らしかった」と思わぬお褒めの言葉を頂戴し、それまでの苦労が嘘のように消えてしまいました。