真似はされても
真似はしない顔づくり。
独創的なブラックフェイスは、
流行りモノとは一線を画していた。
後になって菊池社長の炯眼はつくづく凄かったと思います。
心の目を開いている人に愛される製品は、「こうあるべきだ」という信念で創らねばならない。私は今日でもこの貴重な体験を一日たりとも忘れてはいないし、人のやらない仕事にチャレンジするときは、「心の目の開いている人」を信じて勇気と自信を自分に与えています。
1967年にはAUシリーズ第2作として、本格的なトランジスター式プリメインアンプのAU─777が誕生。もちろんブラックフェイスであり、大ヒットとなります。
AU─777のヒットをきっかけにオーディオマーケットではブラックフェイスのブームが起きました。しかし数年を経ずしてこの“ブーム”は衰退。でもサンスイは黒のシリーズを守り続け、新しさを求めながら黒の完成を目指していきます。
そのブラックフェイスを生かすには、フォルムの上で曖昧さやごまかしは許されません。ちょっとしたバランスの悪さもそのまま、むしろ増幅されて表に出てしまいます。これは三次元のデザインを手掛けるほどに骨身にしみてわかるものなんです。サンスイでは、1つのブラック製品のシリーズを創り上げるまでには十数種に及ぶ試作モデルを作り、ディテールの検討を加えながら練り上げてゆきました。
また、ブラックはフォルムのむずかしさとともに仕上げ処理の管理にも非常に気を使います。わずかな温度の変化で黒は赤味や青味、黄味へと動きやすいし、電流密度の差が艶や発色に影響を与えるなど、アルマイトや染色の量産技術をマスターしておかないと、再現不可能なテクスチュアや色彩を量産段階まで保てない危険をはらんでいるのです。
サンスイでは外装部品でさえも5年間は初期の色彩、輝き、肌合いなどを失わないよう厳密なテストを行ってきました。このようなテストにパスしたパーツを用いて創り上げ、使用される環境の中で調和を崩さず、全体の雰囲気をリフレッシュする力を持ったデザインを理想として追求しつづけてきました。
斬新で重厚、個性豊かな商品デザインを創ること..これを山水はデザインの指標としてきました。
コラム: デザインポリシー裏話
山水電気は創業以来、オリジナルな商品開発、つまり真似をしないデザインの確立に励んできました。個性あふれる商品を作って社会に奉仕し、創造性ゆたかな企業を目指してきました。
そして商品企画セクションができて、デザイン部と共同して、新しく商品デザインのアイデアを考え出すことになりました。
その前段階として、菊池幸作社長と外部からの出向だったデザイナーのAさん、商品デザイン室長のWさんと、宣伝担当の前園という四者で2ヶ月に1回、外部で飲み会を持って意見を交換していました。
また社内のこと以外に、3人とも菊池社長にはお世話になっていたのです。例えば私の場合、結婚式の仲人(これは当時の専務が代行でしたが)とか、新しい住宅(東村山市)の土地選定とか。その家を建てるときは自分の部下のYさん(総務部の建築担当)に図面を描かせるといったこともそうでした。
菊池社長は自ら自動車を駆って東村山の土地まで見に行ってくれて、その土地購入のお世話までしてくれました。私ばかりではありません。Aさん、Wさんにしても同じような体験をしています。会社の上司というより、まるで“仲よし四人組”といった案配でした。
山水は1999年、AU─111をAU─111Vintage1999 (44万円)として200台限定で復刻します。65年当時のヒット自慢をするよりも99年の時点でのこのモデルの実力に言及した方がわかりやすいでしょう。今は亡きオーディオ評論家・長岡鉄男さんの『開拓者 長岡鉄男』(FMfan特別編集)というムックから忌憚のない製品評を引用します。
「歴史に残る名器の復刻、管球らしくないハイスピードな音、高域は目覚ましく声はきれい、低域も力あり」というヘッドラインです。
「限定復刻盤」とある。AU─111は1965年発売のアンプ。当初は6万5000円だった。多くの点で歴史に残る名器である。まず業界初のブラックパネルだった。サンスイ最後の管球式アンプだった。その後登場するAU─555、666、777、999はすべてトランジスターアンプである。AU─111は大出力ハイCP機としてベストセラー、ロングセラーを続けた。
その名器が1999年によみがえった。当時のカタログが残っているので比べてみたが、どこからどこまでそっくりである。独特の額縁パネルもそっくり。切り欠きのあるノブも同じ、アルミ棒から削り出したのだろう。パワースイッチも7個のシーソースイッチも特注だろう。変わったところといえば、入力がオリジナルはTAPE HEAD(EQ内蔵)、MONITOR、PHONO1/2、AUXと6個だったのが、PHONO、TUNER、CD、LINE1/2、TAPE PLAYの6個になったこと。それとACケーブルがじか出しから3P着脱式に変わったことぐらい。入出力端子は比較できなかったが、多分今回の「ビンテージ」の方が上質のはずだ。
重量はオリジナルがスペックで24.5kg、ビンテージは 27.2kgと重い。キャビやトランスに変化があったのかもしれない。使用真空管は全く同じ、スペックもほとんど同じである。出力、歪率は同一、f特だけが変わって、20Hz〜50Hz(±dB)から10Hz〜80Hz(+0,−3dB)となった。−3dBまで取ればオリジナルでも80KHzまでいったのではないか。とにかくSACDはクリアしている。
ダイナミックテストはもちろん、FMfan自体がなかった時代の製品なので比較するデータがないが、ボンネットは1,600g。トップ 6本、リア 2本、計 8本のねじで取り付け。ボリュームノブは小型だが29g。ACケーブルは3P着脱式で 2.0mm、キャブタイヤ丸形コード。電源トランスはコアサイズ130×110×40mmが2基。シャシーは13クロームステンレス。基盤は使わずパーツ直結である。
ウォーミングアップには時間がかかる方で、10分ぐらいで一応の音は出るが、2時間ぐらいたつとずいぶん変わる。いわゆる管球アンプの音ではなく、ハードでハイスピードで、ハイエンドが伸び切っており、シンバルが目覚ましい。弦やボーカルは美しく、低域も力がある。伸びと量感は大出力トランジスターに負ける。完全復刻のための努力を考えるとCPは高い。
何年か先の話になるが、アンプ関連ということで4チャンネル・ステレオについてもここで言及しておこう。年季の入ったオーディオマニアならご記憶の方もおいでだろう。
モノラルLPから2チャンネルのステレオLPに切り替わっていったのが前園青年が山水電気に入社した1957(昭和32)年ごろ。それから13年経った1970年に4チャンネル・ステレオは突然出現し、1971年に全盛を迎え、1972年には早くも退潮傾向、1974年でほぼ姿を消した。
なぜか? 各社が各様の方式を発表して消費者を混乱させたことがまずある。また、2チャンネルのステレオもまだまだ道半ばだったこと、小さな部屋に最低4つものスピーカーを設置するのは日本の住宅事情には不向きだったこと、 ソフトが十分に供給されなかったことなど、退潮の理由はいろいろあった。このあたりの事情は『長岡鉄男の日本オーディオ史1950〜1982』(音楽之友社 1993年)に詳しい。
サンスイの4チャンネル・ステレオであるQS方式は、4つの異なった音を出すというより、基本となる「音場創成」を目指したものだった。簡単に言えば、ステージの立体再現(?)ということである。
1970年、QS方式の原型機サンスイQS─1が発売され、ここからオーディオ業界で4チャンネル合戦の火ぶたが切って落とされる。パネルフェイスはもちろん黒。ベストセラーのAU─666のデザインにならったものだった。
サンスイの4チャンネル関係の売り上げはここから急拡大で、1971年10月期で25%、翌年同期で40%近くまで増加している。しかし4チャンネルにすれば、当然平均単価は上がる。出足が早く、熱く燃えていたサンスイでは売り上げが急伸した。しかし製品機種を増やしたことで生産効率は落ちてしまい、さらに1972年からはPX向けの輸出が激減した(1973年1月 ベトナム戦争パリ和平協定締結)。製品戦略の見通しを誤ってしまったのだ。音場創成はオーディオ・メーカーにとって極めて重要な開発課題だが、半面レコードに刻まれている信号のすべてを完全に再生できてはいなかった。ユーザーの関心も常に4チャンネルの音場創成にあるわけではなかった。その面でも対処を誤った。
しかし別の側面から見るとQS方式は、1973年にRIAA(全米レコード協会)の正式規格として承認を受けている。世界各地の放送局やレコード会社では、プロ用のデコーダーとしても大活躍した。さらに1979年には米ドルビー社が映画音声システムにQS方式を採用している。そのきっかけは、「スター・ウォーズ」製作中のジョージ・ルーカス監督がこのシステムに着目したことだったという。つづいて「サタデー・ナイト・フィーバー」にも採用され、アメリカでは700以上の映画館がQS方式を導入し、日本でも洋画専門館で導入されていった。オーディオの世界では葬られた4チャンネル、音場創成は映画の世界で形を変えて生き残ったのだった。