第五章「アンプはブラックで行こう!」

話題を呼ぶようなヒントは
日常に潜んでいる。
ブラック・カラーのヒントは、
毎日手にしていたカメラにあった。

宣伝部から新設の商品企画部へ 

1964(昭和39)年6月、宣伝課長の私は菊池社長に呼び出されます。言われた社命が「アメリカへ行ってションベンを残して来い」。

私としては新宿三光町のショールーム開設で忙しい時期だったのですが、社長命令です。サンスイが初出品する「シカゴ ミュージックショー」に単身乗り込みました。

オーディオの本場アメリカではサンスイなど無名のひよっこメーカーです。無論輸出の拠点もない時代で、日本人スタッフとしては修理サービスの駐在員がいるだけです。シカゴの会場に入ると最先端の機器はまばゆいばかりです。「本場の物が放つオーラの正体をつかんでこい」ということなのだなとカメラで撮っていると、現地メーカーの大男につまみ出されてしまい、フィルムを抜かれました。だが彼もランチには行くはずだと思っていると案の定。いなくなったのを見計らってこちらは必死に撮りまくりました。そして、その写真が伝えたデザインや本物感が大いに役立ち、再びアメション撮影の社命は来なくなりました。

しかしこの年、社長は「男なら物づくりをせよ」と。問答無用で新設の商品企画部に移されてしまいました。

仕事は年に1〜2回、セールスマンとともにアメリカで製品のプロモーションを行い、サンスイ製品のどこがいいか、わるいかを必死にリサーチするのです。アメリカは日本とは違って、主にレコードで音楽を聴くのではなく、FM放送が中心です。1965年にサンスイはサンフランシスコに海外初の駐在所を作りました。ここからも現地事情が伝わってきます。音楽好きなアメリカ人がFM放送を聞く場合、用いるのはチューナー付きアンプ、いわゆる総合アンプ、レシーバーです。だからアメリカ向けの製品はチューナー付きアンプがメイン商品となるので力を入れました。この製品のポイントはFMチューナー部の良しあしです。しかしサンスイ製品のチューナー部分はセパレーションがわるくて、林立するFM局の電波が混信してしまう。これは大いに反省させられました。

そうして商品企画の本来の仕事は“こういうものが売れる”と物づくりの部署に示す仕事で、これは国内のみの担当でした。

コラム: 余談ながら こんな仕事も

話が前後しますが、国内の仕事では1963年、業界に先駆けて新宿三光町にショールームを開設しました。1962年頃には、いまの毎日新聞社がある竹橋のコアビルに入っていたアメリカの雑誌社、リーダーズダイジェストの食堂に乗り込み月賦でサンスイのセパレートステレオをセールスです。1日で5台の契約成立といった感じでした。

セパレートステレオには買うときに販促用のLPレコードを付けます。1968年からはステーキ店のステレオの一件でいっそう親しくなった石原裕次郎さんの計らいにより有利な契約条件で当時大人気の浅丘ルリ子さんをジャケット写真に起用できました。ジャケットの撮影は私の写真の師匠でもある秋山庄太郎先生。レコード制作はオーディオラボで、録音ミキサーが名人の菅野沖彦さん、ディレクターは森山浩志さん。前田憲男さんが歌謡曲をジャズのアレンジにして、北村英治さん、猪俣猛さん、尾田悟さんといった一流どころが参加。数もよく出たし、楽しい仕事でした。アメリカ向けの製品にも別バージョンのレコードが作られ、やはりジャケットは浅丘ルリ子さん、中身は前田さんアレンジの歌謡曲でした。別の国内向けレコードとしては4チャンネルブームのころ、シンガーソングライターの小椋佳さんを起用してQS録音のレコード(これは菅野録音ではありません)も制作。小椋さんとはここで親しくなりました。

 

サンスイのアンプは黒パネル!

私が商品企画部で行った主な仕事は「ブラックフェイスのアンプ」と「組子格子のスピーカー」を企画して大ヒットを放ったことです。世に出た順で、アンプの方からお話します。

当時アンプは、それまでの真空管によるものからソリッドステート(トランジスタ)に急激に移行していった時期です。また1965年3月に山水電気はアメリカ西海岸の名門スピーカーメーカーJBLと総代理店契約を結び、直ちに輸入を開始します。と同時に、当社の技術陣や会社のカラーはJBLから大きな技術的、思想的影響を受けるようになっていきます。

そして同年8月に発売されるプリメインアンプAU─111は山水最後の真空管プリメインアンプとなるものだったので、「若いやつがやりたいようにやっていいよ」と言われたんです。性能は大出力で飛びぬけている。そうなると特別なものにしたいという思いがつのります。

山水電気というのは非常に頑固な会社で、製品づくりの一番大きなポイントは「他人の真似をしない」、つまり「個性の商品化」を非常に大事にしていました(商品の個性化とは一線を画しています)。アンプのパネルの色というのは、従来がシャンパンゴールドかシルバーだったので、山水らしい頑固さを出そうと、私はブラックフェイスの採用を提案しました。

発想の元になったのはカメラ、ブラックペイントのニコンFです。クロームメッキが美しいレンジファインダー機の最高峰ライカM3が出たのが1954年ですが、その5年後には一眼レフのニコンFが出て、1960年代はFを頂点とする日本製一眼レフにカメラのトレンドが移っていきます。ブラックペイントのモデルは、カメラの存在を感じさせてはいけない動物撮影や戦場取材、機影が写り込んではまずいガラス越しの撮影などに威力を発揮するので、主流のメッキモデルに加えて各社少数販売されます。でもそんなことより黒のニコンFは精悍で硬派でどっしりしており、それが行きつけのカメラ店の一番いいところに飾られていました。奮発してこれを購入、毎日手にしていたおかげで“本物とはこういうものだ”という感覚が滲み込み、「高級カメラが黒ならば、高級アンプも黒があっていいはずだ。いつかオーディオ機器に黒を取り込んでやろう」と思っていました。そうしてデザイナーと案を練り、誕生させたのがAU─111なのです。

オーディオ評論家の岩崎千明さん(故人)も書いておいでですが、米国マッキントッシュのアンプの完全なブラックフェイス化は1968年のC26からなのでサンスイの方が3年早い。その前のC24は上半分がブラックで下半分がゴールド。さらにモノラル時代のマッキントッシュはゴールドだったのです。ともあれ日本にはまったくなかったブラックフェイスのアンプの誕生です。黒の使い方、デザイン処理もマッキントッシュとの類似性はありません。

しかし、デザイン試作の柄サンプルを有力なディーラーさんに持ち込んでリサーチをしてみると「黒いオーディオ製品なんて聞いたことがない」「部屋が陰気になり、他の機器とマッチしない」「こんなもの売れないだろ」とことごとく否定的な意見でした。菊池社長に報告すると「世の中わかるやつ半分、わからないやつ半分だよ」と言われ、若いわれわれの思うようにやらせてくれたので修正されぬまま世に出ることになりました。AU─111はその重量感、音、高級感が評判を呼んで大ヒット。以後、サンスイのアンプは一貫してブラックフェイスを押し通します。黒はサンスイのアンプの代名詞、標準色(イメージカラー)ともなり、優雅さよりも力強さを感じさせる黒を採用しつづけたことでジャズとの親和性も強まります。その結果、サンスイとして公式アナウンスは出さなかったけれど、サウンドもジャズ中心に振って、それがメーカーの姿勢となっていきます。

コラム: 山水電気の企業風土

当時の社内誌「さんすい」には、こんな一文があります。

山水の製品には、山水独特のカラーがありますが、このカラーは製品を作る従業員のカラーから生まれるものです。したがって、山水の従業員は他社にみられない良い点を持っております。その山水カラーを要約すると次の三つがあげられると思います。

1.独創性..ひとのもの真似をしない。いわゆる他力本願にならない独自の味と研究心の養成であります。 

2.誠実性..どんな些細なことでも良心に背かない行動をする。仕事や言語に嘘がないことであります。 

3.行動性..良いと思ったことや、やらなければならないことはすぐ実行に移す。いたずらに考えてばかりいてチャンスを失ってしまっては人生の落伍者になってしまいます。 

以上が山水の先輩諸氏によって培われ、受け継がれてきたカラーですが、さらに教養を加えてより立派なものに育てあげてゆきたいと思っています。

これは社外の人に向けて書かれたものではありません。「新入社員の皆様へ」という文章の結びの部分です。ちょっと異彩を放っているでしょう。こういう企業風土があってAU─111は誕生したのだと思っています。