学生時代とその後の演劇修業時代は3畳間の下宿住まいだし、スタニスラフスキー漬け(スタニスラフスキー・システム:ソ連由来のリアリズム演劇理論) で夜も日も明けない状況ですからとても食っていけない。当然これといったオーディオなどありません。そのかわり当時は音楽純喫茶というのがあちこちに誕生していました。一番いい儲け口がそういったところの音響装置を作り、音の管理をすることです。そのため、演劇をやっている連中はサンドイッチマンとか肉体労働をやってカツカツで食っていたけど、僕はゆうゆうと生活していけたわけです。“芸は身を助く”ではないけれど、趣味のオーディオが生活を助けてくれたのです。
折から、東京駅八重洲口の真ん前に、「河童の子守歌」という名のすごい名曲喫茶を作ろうという話が起こり、その室内装飾を舞台芸術学院の先輩が請け負っていた。その先輩が、音響の方を引き受けないかと誘ってくれたわけです。中国人のオーナーは、「とにかく世の中にないもの、人が驚くようなものを作ってくれ」という。部品を買うお金がないと言ったら、少し待てと言います。先にお金をくれないのは困るのですが、テレオン(当時はテレビ音響)の鈴木七之丞社長や丸山無線のおやじさんに事情を話したら、出世払いにしてくれました。すると1週間後、オーナーが80万円の小切手をポンと切ってくれた。3畳の下宿に住んでいる名もない学生にです。これには感激して、死ぬ気でいいものを作ろうと決心しました。
当時はモノラルでしたが、どうしてもステレオをやりたい。疑似ステレオでもよいから作りたくて、左右の壁面に20本ずつのスピーカー(ナショナルの8P─W1と6P─W1 通称ゲンコツ)を使い、ウーハーには丸山無線の特別製ダイナトーン(80cm)を3D方式で組み合わせ、店内全体がスピーカーという感じのものを作りました。
音楽喫茶は二連のレコードプレーヤーを代わり番こに操作して曲を流すのですが、どうせやるなら解説付きでやろうと思い立ちました。階下にはガラス張りのアナウンス室を設けて、いまのディスクジョッキーの走りである関光男さんや志摩夕起夫さんに土日に来てもらいレコード解説です。大人気を博し、いつもお客さんでいっぱいになっていました。
あの頃店で人気があったレコードは、ジュゼッペ・ディ・ステファノのナポリ民謡とか、「ペルシャの市場」などですね。DJのプロは週に2回しか来ないからというのでウィークデーは私が頼まれまして、ジャケットのライナーノーツを見ながら「これからおかけする音楽は……」などと解説していました。演劇をやっていたのがここで役立ったのかもしれません。
ちなみにテレオンの鈴木七之丞社長とはこのときのご縁が基になって山水電気入社当時の、またずっと後のオルトフォンジャパン入社時の保証人を引き受けていただきました。
もう一人、恩人がいます。「河童の子守歌」のシステムを作っているとき、隣にあったナショナル・ショールームの所長さんには測定器などでお世話になりました。所長さんは当初、ナショナル(松下電器)に入れと言ってくれましたが、私は演劇をやりたいから固辞していました。しかし母や親戚が「いったい何をやっているんだ。早く正業に就け」とうるさくなってきたし、上京した母から「あたしは体が悪い。おまえがまともな会社に入るまでは帰らない」と言われ、このときに演劇の道はあきらめ会社勤めを選択しました。そこで所長さんに相談すると、「思い切ってやりたいことがあるのならそれができる会社に」と山水電気を紹介されたのです。ただ正式に入りたかったので、紹介とは別に試験を受けることにしました。そうした事情で山水電気を受けたのです。
ちなみに、「河童の子守唄」は週刊誌にも取り上げられ話題となりましたが、残念ながら2年後に火事で焼失。こちらが山水に入社してすぐのことでした。
山水電気株式会社は1947(昭和22)年6月30日にトランスメーカーとして創立された。資本金18万円、社員10人、社屋は木造2階建てで、渋谷区代々木上原にあった。その前身は、1944年に菊池幸作氏個人の事業として始まった山水電気製作所であり、これを株式会社に改組したものだった。
戦後日本のオーディオ、あるいは電器産業はラジオ作りから始まった。終戦前後、ラジオ部品は粗悪品が多かった。当時ラジオ部品を扱う会社の営業マンとして活躍した菊池は、なんとか信頼のできるパーツを自分の手で作りたいと考えた。
「日本のラジオが発展するためには、品質に絶対の信頼のおける部品が揃わなければならない。不良品は絶対になくしたい。それには、たとえ利益はうすくとも、間違いのない品から造ってゆこうと、数ある部品の中から選んだのがトランス(変成器)である。トランスはまったく儲けようのない部品である。コイルになる銅線と鉄芯で、ほとんど原価を食われてしまう。けれども、値段は高いが品物は良い”という定評をつかめるまでは、これ一筋に押してゆくつもりであった」と当時の志を吐露している。
後に“ステレオ御三家”とよばれ、山水とともにオーディオ専業となるパイオニア、トリオ(後年ケンウッドと改称)もこの時代は部品メーカーとして活躍している。戦前創業のパイオニア(当時は福音電機)は経験も長く、ハイファイ・スピーカーのメーカーとして着実に地歩を固めていた。トリオ(同春日無線)はコイルの専業メーカーとして高周波技術の礎を固めつつあった。
1954(昭和29)年、山水電気はハイファイ事業に乗り出す。4月に初のハイファイ・トランスを発売、9月にはキットを主体としたプリアンプ、メインアンプを発売した。もちろん真空管の時代である。レコードを良い音で再生したいという声に応えたものだ。菊池社長は語る――
「昭和30年ごろから、いわゆるハイファイ・ブームがやってくる。同じトランスでも音響関係の分野に着手してみた。増幅器を支えるいいトランスがなければ、立派な音は出ない。私は学校でいえば高校以上のクラスに当たる、セミ・プロ(註・オーディオマニアを意味する)相手の音響装置に関心を抱いた。一般向けの品は大手メーカーさんが沢山出していらっしゃる。私どもの世帯では、高くても一回買ったら相当長い間愛用してもらえる、つまり耐久力のある品のひとつひとつで信用を築いてゆくよりないのだ」
AMラジオのハイファイ化は多くのマニアに望まれていた。そこで翌年、山水はチューナー付きプリアンプPR─330を発売、爆発的人気を呼ぶ。昭和30年代が“ハイファイ・アンプ全盛時代”と言われた背景には、ラジオ製作に始まるキットの成功も大きく影響している。
戦後日本のラジオ商が自分の店でラジオを組み立てて販売したことはよく知られているが、そうした背景もあって山水でもプリアンプやメインアンプのキットを発売してきたが、それらのユーザーが経験的にコンポーネントの組み合わせの良さを主張し、その声が日本のオーディオ界に大きな流れを作っていく。
1956年に発売した高級コンソールタイプのハイファイ・アンプSA-1000 は日本オーディオ史に残る製品だった。また、日本初のレシーバーPM─R500、PM─V600も世に送り出されている。
AMラジオのハイファイ化と並行してレコードのLP熱も高まっていた。米コロムビア社のLP開発(1948年)に刺激され、1951年4月には日本コロムビアから国産初のLPレコードが発売される。もちろん未だモノラルである。
1955年になると、名曲喫茶が広く全国に生まれ、同時にLPレコードコンサートが各地で催され、この二つの“風物詩”は昭和30年代の音楽とオーディオの大衆化に大きく寄与した。山水電気主催の「オーディオ・コンサート」では作曲家の芥川也寸志さんが新宿安田生命ホールでトークを行ったとの記載があるから時代が偲ばれる。
また、クラシックの評論家を中心とするLP愛好家の人たちが、オーディオ機器に対しても極めて熱心な開発助言者として登場してくるのもやはり昭和30年ごろからである。
話をオーディオ装置に戻そう。1957年10月、FM実験局のスタートに伴って山水電気からFMチューナーとFMレシーバー(チューナーとアンプが一体化されている)が発売された。この時期、山水はアンプの生産開発で最先端を走っていた。春日無線工業はFMチューナーの対米輸出などで早くから開発設計を進め、福音電機はスピーカーで相当な実績を上げていた。そしてステレオLPが登場、紆余曲折を経て方式も統一されていった。ステレオが身近になり、オーディオ業界は劇的に変化を遂げる時にさしかかっていた。
そんな中での山水電気の求人広告で、これを目にして面接を受けるのが前園青年。「創意もあり、よく動きそうな若い奴が来た」と菊池幸作社長は直観したのではないか。
ちなみにこの年、世の中には軽三輪トラックのダイハツミゼット、東芝の電気やぐらこたつ、積水化学のポリバケツがお目見え。翌1958年にはスバル360、ホンダのスーパーカブ、日清食品のチキンラーメンが発売され、東京タワーが完成。そういう時代だった。