第一章「私の生い立ち」

映画に夢中になった。
ラジオ製作に熱中した。
演劇にも魅了された。
それらを通して、
はぐくまれた感性。
磨かれた感覚。
001_第1章_私の生い立ち3

音楽のめざめ

ここで自己紹介をかねて私の生い立ちと音楽・オーディオとの出会い、そして山水電気を受けるまでを駆け足で語っておきましょう。

「広告の方はどうしたんだ?」・・・それは第3章までお待ちください。

僕は1935(昭和10)年5月14日、東京生まれです。本籍は日本橋区蛎殻町。一番古い記憶は2、3歳のときに住んでいた大森区(現在は大田区)の大森山王にあった家で、「レイ」という大きなシェパードを飼っていたことです。4歳か5歳のときに皇紀2600年となり、父の肩車に乗って大森駅前の大通りで提灯行列を見たことは憶えています。

変化するのは6歳のときです。おじが軍関係の石油会社を作ったことから、貿易専門の横浜正金銀行に勤めていた父が軍属となって上海に赴任することになり、妹を含め一家4人で上海に渡ります。2人女中さんがいて、僕と妹に1人ずつ付いてくれました。入学した先は上海第九国民学校です。

父はサーベルを腰に軍属、というより官僚として働きます。その無聊をなぐさめるためでしょうか、大型の手回し蓄音機(長じてからそれが名機クレデンザと知りました)を購入しオペラを聴いていました。そのときの「アイーダ」や「リゴレット」はいまでも耳に残っています。また「勝ちて帰れ」や「星も光りぬ」など、燈火管制下の応接間から漏れ出る甘美なメロディーを、子ども部屋のベッドで聴きながら眠りについたものです。その頃「蓄音機屋」になると密かに誓っていました。

父はこわい存在であり、僕はわがままな長男でした。父の音楽好きはもっぱらレコードでしたが、なぜかピアノを手に入れ僕に習わせました。先生は美しいドイツ人女性で、僕はバイエルを学びます。この美貌にあこがれて音楽好きになったようなものです。こんなふうに前園家は機械づくりと音楽好きなのが血筋だったようで、これが人生を貫くことになります。

しかし父は40歳のときに前触れもなく脳出血で倒れて5日間意識不明。ところが6日目になって突然「日本は負ける。日本に帰りたい」と言葉を発し、その翌日に亡くなります。

オーディオとの出会い 

それからが大変でした。母と10歳の僕、6歳の妹、上海で生まれて2歳になっていた弟の4人は内地への引き揚げ船の船倉で大勢の人といっしょに命からがら帰ってきます。門司港上陸が1945(昭和20)年5月、母の故郷である山口県萩市へ移って親戚の世話になり、そこで8月15日の終戦を迎えます。学校は、吉田松陰の残した明倫小学校の4年生に編入です。しかし勉強にはいっこうに身が入らない。なぜなら、怒涛のように外国映画が入ってきたからです。

萩の場末にある住吉座という唯一の洋画専門の小屋で、「自由を我等に」「美女と野獣」「天井桟敷の人々」(これは5回観た)などのフランスもの、「自転車泥棒」(これは3回)「靴みがき」などのイタリアネオリアリズム、そして「カサブランカ」「駅馬車」などのアメリカ映画に夢中になりました。それはもう息をつく暇もない名作の連打で、新制中学を卒業するまで映画漬けになりました。やっぱりストーリーに感動して繰り返し観たのでしょう。「ラジオ少年」と呼ばれる前に「映画小僧」を名乗るほどの熱中ぶりでした。

この住吉座で映写技師をされていたKさんという方と運命的な出会いをします。大資産家の息子さんで独身、映写技師というより哲学者といった感じがピッタリで、アマチュア無線とオーディオに精通した人でした。子どもの僕があまりにも映画に夢中になり、せっせと映画館通いをして質問に来たりするものだから、Kさんは「そんなに好きなのか」と心配したり喜んだりといった感じでしたね。

中学時代はもう隣の阿武町に移っていたのですが、ある晩終列車に間に合わず、映画館に泊めてくださいと頼むと、心配したKさんのご厚意でお宅に泊めてもらうことになり、僕は初めて電蓄という怪物に遭遇します。無類の音楽好きであった僕は、教室でも手回し蓄音機のハンドル係をよくやっていました。それがここでは何もしないのに音が出るじゃないですか。しかも出てくる音楽は進駐軍払い下げのメチャクチャ音のいいLPレコードで、フランク・シナトラなど一流歌手の熱唱です。もう目からウロコが落ちまして、オーディオに夢中になっていきました。

Kさんはしょっちゅう東京に行っては進駐軍の放出した真空管(GT管)とかレコードなどを買ってきていました。僕はラジオや、手回しの蓄音機で樹脂状のシェラック盤SPでの音楽は聞いていたけれど、電蓄は知らなかった。戦後で、食べるものも自由にならない時代です。ものすごい大型スピーカーから流れる耽美な音楽に心から酔いしれました。

そのLPは塩化ビニール製の33回転のモノラルレコードですが、柔らかくて軽くて大きくて、ダイヤモンド針で音楽を再生する。6L6メタルGT管を用いたプッシュプル・アンプにジェンセン(米国)のコーナーバスレフ、初めて目にするこの世離れした事物ばかりで、“世の中にこんなものがあるのか”と音のすごさに肝をつぶしました。Kさんは、ませた引揚者の少年に対して素晴らしい音魔術のタネあかしをしてくれた。それが初めてのハイファイ、LPレコードとの出会いです。

その後、父親がわりともいえるKさんに弟子入りさせてもらい、オーディオ以外にいろいろと人生百般の教えをいただき、やがて演劇のプロを目指すことになります。

ラジオで機械いじり事始め 

電蓄との遭遇後しばらくして、今度はラジオです。阿武郡奈古町のラジオ屋さんの息子、Sくんと同級生になりました。機械いじりの趣味を持つ同士なので、すぐに意気投合です。

彼の父親、つまりラジオ屋のご主人は大阪の人で、主にモーターの製造修理をしていたのですが、五球スーパーラジオの全盛時代となるや店の商品であるそれらが飛ぶように売れ出します。なぜ五球スーパーが売れたか? 山口県は中国や韓国に近く、猛烈に混信するので分離のいいラジオじゃないとダメだったのです。するとご主人は自分でも材料を大阪から取り寄せ、利幅の大きなラジオアッセンブリー(組み立て)に乗り出したのです。当時はまだメーカーが立ち直ってはいない時代でしたから、自分で組み立てて売るとけっこうな儲けが出ます。そこで、私とSくんがハンダごてと組み立て配線図を手にせっせとラジオ作りのアルバイトをやることになったわけです。中学1年のときにはラジオの民間放送が始まり、それを聞こうとさらにラジオ作りに熱中。そのお金を手にしてせっせと映画館通いです。そして、このときに覚えた技術が後々大変に役立つことになります。

また、ここで山水電気のトランスを初めて手にしています。それは鋳物の、まだ黒くなる前の製品で、男性的というかあか抜けない。しかし見るからに品質の良さそうなトランスでした。結局これをSくんの父親のラジオ店でアルバイトをして買いましたが、山水との縁はまだ知る由もありませんでした。

演劇への傾倒 

1948(昭和23)年、萩の隣の阿武町にある奈古中学校に入ります。ここでの3年間、映画少年だった僕は演劇部に所属し、優れた指導者に出会ったことでコンクールなどでも受賞。演劇のプロを志すようになります。高校は県立萩高校に入学しますが、1年のときに母から、「おまえが生まれたのは東京です。ご先祖様も東京だしお墓もあちらだから、おまえは東京に出なければなりません。そして自分の手で家を建てなさい。当面一家(8歳下の弟もいました)では行けないから、親戚を頼ってでも東京で自立しなさい」と無茶苦茶なことを言われます。

試しに上京してみました。なんとかやって行けそうに思えたので、1951年8月、演劇で有名な都立鷺宮高校に編入学します。まずは物理部に入部し、ラジオやアンプを作ることで元気をもらいました。演劇では、コンクールに出て優勝したことで将来はこれで身を立てようと決心します。つまり新劇と出会って夢中になったわけです。

1954年に卒業すると、やっぱり演劇への思いは断ちがたく、母が期待していた早稲田大学ではなく、劇作家で詩人の秋田雨雀先生が校長をつとめる舞台芸術学院に入ります。第6期生、演出専攻です。

1956年に卒業した後は世田谷区代田橋にあった劇団「青俳」(青年俳優座 木村功さん、岡田英次さん主宰)に入団して演劇修業の日々です。青俳には、西村晃さん、加藤嘉さん、織本順吉さんといった方々がいらっしゃいました。映画俳優だった三橋達也さんもここで先生をしていて、レクチャーも2回受けました。三橋さんは劇団の人とは違った楽しさと華やかさがありましたが、オーディオマニアだとはこの時点では知りませんでした。オーディオについては演出助手の傍ら、木村功さん宅の枕もとのラジオや電蓄のアンプを作りました。

演出の先生は土方與志さんで、銀座のキャバレーを使っての稽古です。土方さんが俳優にダメを出し、それを演出助手の僕や同級の蜷川幸雄さんが見て実地の勉強です。後輩には浜畑賢吉さんもいました。仲がよかったのは高津住男さん。1936(昭和11)年、中国の奉天(戦後は瀋陽)に生まれ、引き揚げ船で徳島へ。境遇も似ていたから気が合って友達になりました。テレビドラマ「ケンちゃんシリーズ」(TBS系)のお父さん役(1979〜82年)だったとご記憶の方もおられるでしょうが、舞台の演出も手掛ける才気と志があった人です。また初期のテレビドラマ「検事」(フジテレビ系 1961〜63年)では宇津井健さん扮する主人公を取り巻く4人の同期検事の1人でした。ちなみに役柄は、熱血感の宇津井健さん、温厚で視野の広い佐竹明夫さん、クールな理論派の園井啓介さん、宇津井さんを慕う紅一点が小山明子さん、そして庶民派検事が高津さんだったと記憶しています。後に真屋順子さんと再婚してからもよく会っていたので、2010年、74歳で亡くなられたのはほんとうに残念でした。

演出助手のつもりでいたら、ある日先輩から効果係に誘われ、そこから照明係を志すことになります。母親からは「いつ東京に呼んでくれるのか」と矢の催促ですが、食うのに精いっぱい。そこで生活費を捻出するため、今度はアンプの組み立てを始めます。