最終章「仕事は遊び心で 趣味は命がけで」

音作りには、その人が出る。
趣味にもまた、その人が出る。
カレーは“私”だ。
カメラは“私”だ。

カレー作りの趣味が運命を呼ぶ 

おしまいは、オーディオセンターとカレーの話を。菊地社長退陣のあと新社長となったのは技術屋さんではなくて銀行出身の人でした。そこで私は社長室に異動となりました。オーディオがわからない新社長を補佐するためです。ところが新社長、会社の状況が良いこともあって交際費がやけに多い。それをあけすけにチクチク言っていたら左遷です。ほどなくして、新宿のオーディオセンターに飛ばされました。

いつ辞めてもいいと腹を括りました。それならば好きなこと、信じていることをやろうと、オーディオ評論家を招いて定期的にオーディオ講座とレコード鑑賞会を開くことにしました。これは第11章の第1試聴室の項にあるとおりで、狙いたがわず軌道に乗ったのですが、面白いからどうしても時間がオーバーしてしまいます。終わるとお客さんがみんな腹を空かしているわけです。でもオーディオセンター周辺はオフィス街ですから、夜の飲食店が当時あまりありません。いろいろ考えた末に、会場で手づくりのカレーを出すことにしました。ポケットマネーです。好評だったので、さらに美味しく本格的なものにしようと、インド人の先生が主宰する料理学校に自腹で2年間通って勉強しました。このカレーはお代わりをする人が多く、毎回200食はあっという間にはけてしまいました。

ところが、このカレー話が杓子定規な上司の知るところとなり、再び窮地に立つハメになります。そんな折も折、外資系のヘッドハンティング会社から「デンマークのオルトフォン社が設立する日本法人で働いてみませんか」という話が舞い込みます。フォノカートリッジを作る名門の会社、高級なMC型カートリッジの創始者です。

私は山水電気で定年を迎える気でいたので一度は断りました。しかしこの頃になると会社は傾き、給料の遅配、管理職の減俸があって、骨を埋めるつもりがダメになります。1987(昭和62)年、30年間のサンスイマン人生が終了しました。 

そして山水電気はいくつもの紆余曲折があって後に倒産。また多国籍企業のハーマンインターナショナルの傘下に入っていたJBLはサンスイとは完全に離れたけれど、そのハーマンが2017年には韓国サムスンの子会社になっています。こうした変転の意味合いは人によって違うでしょうが、まことに時の流れは速いものだと思います。

スパイスのブレンドは男のこだわり 

さて、私のカレー修業について、その詳細は1990年の「サウンド・トップス」誌(技術新聞社)に記してありますが、ここではその抜粋を掲載しておきましょう。

「深いカレーはまさにスーパーアナログの味わい」 辛いだけでは本物じゃない

カレーは混合スパイスであり、単品ではない。いろいろな種類の香辛料を、微妙なサジ加減でミックスしたものなのだ..こう説明してもご理解いただけないことが多い。困るのは超簡便が売り物のレトルトカレーの出現だ。カレーは香りが“いのち”の料理であり、これではまるで、オーディオマニアにできそこないのCDで我慢しろ、というが如しではないか。本物のカレーは、究極のスーパーアナログの味なのである。

先日、五つ星マークのレトルトカレーを見つけた。期待に胸ふくらませて口に放り込んだところ、あまりの味に驚いてしまった。うまいのではなく辛いのである。改めてパックの説明を読むと、星の数は単に辛さの基準だという。 

カレーの辛さの元は、チリペッパー、ジンジャー、ペッパー、マスタード、それにニンニクや玉ネギなどである。物理的にこの分量を増やせば辛さを強くできるが、うま味が増すわけではない。いいカレーは、最初はむしろ甘味を感じ、辛みは後からくるものである。 

カレーの味でよく誤解されているのが、この辛さ、つまりホット度で、ヒーヒーいう、それこそ真っ赤なカレーが平気で食べられないと「通」ではないらしい。しかし、そんなことは自慢でもなんでもない。辛さは必要条件であっても、絶対条件ではないのである。私の場合、メキシコ産の青唐辛子を加え、咽喉奥から胃まで届く深くて重い辛みを出す工夫をしている。

調合にはその人の感性がズバリ出る

本物のカレーは「香りの芸術品」であり、一度この虜になると、もう逃げだすことができなくなる。こんなカレーの秘訣は、一にスパイス、二にスパイス。スパイスの使い方、そしていかにフレッシュなスパイスを手に入れるかにかかっている。 

本場インドの「カリ」(カリー)は、中に入れる具(チキン、ラム、魚介類、野菜など)によってスパイスの配合が変わってくる。

最初に、ナマの香辛料を石の臼状の器に入れ、石の棒で叩きつぶし、すりつぶす。ニンニクや玉ネギも包丁を使わずに水を加えつつひきつぶし、ベトベトのペースト状に練り上げていくのである。つまりスパイスの「個性的複合化」をリアルタイムで、しかも指を主導に行うのである。 

当然のことながらスパイスの組み合わせと分量のサジ加減は、家ごと、人ごとに異なるわけで、カリーと呼ばれていても、それぞれ香り、色、味、効能などは千差万別となる。カリーが面白いのは、まさにその「錬金術師的」な部分であり、調合者の感性がズバリとそこに現れてくる。その意味ではオーディオの世界に極めて近似したところがあり、その魅力は果てしがない。同じシステムを使っていても、人が違えば出てくるサウンドが微妙に違ってくるように、そこには不思議に「人間」が浮かび上がってくるのである。

本格カリー作りが始まった

私がこれらスパイスの魔力に魅せられ、本格的なカリーの食べ歩きを始めたのは今から14年前(1976年)のことであった。アジャンタから、デリー、モティマハール、タージ、マハラジャ、ムルギー、アショカ、ガンジー、ベンガル、ナイル、印度、中村屋など、インド系を始め、インドネシア系、タイ、ビルマ系、はては和風、欧風の有名店まで片っ端から食べ廻った。約1年間で40店近くは歩いただろう。 

その結果わかったのは、一つとして同じ味、香りはないということであった。これならば「自分流カリー」がつくれるに違いない、と決意。当時は九段にあった「アジャンタ」で袋入りのスパイス一式を求め、説明書の通りやってみたが、どうもうまくゆかない。 

考えてみると当たり前の話で、ベストといわれる本格的カリーを散々食べ歩いた後だもの、口の中は肥えに肥えている。そこで、ねばりにねばってシェフ直接の指導を仰ぐことになった。忘れもしない14年前の大晦日、アジャンタのキッチンでのことである。 

しかし、それでも満足がいかず、ついに翌年インド料理の学校へ通う羽目になった。まだ男の料理ブームが始まる前であり、大勢の女生徒の中での“黒一点”であった。私のカリーの教師は、レヌ・アロラ先生。NHKの料理番組の中でも、印度料理には必ずといっていいほど登場されるし、『私の印度料理』という立派な専門書を柴田書店から出版されている。 

長く作ってきて気がついたのは、むしろ、ブレンドの種類を減らした方が個性が出せる、ということである。オーディオの原則である「シンプル イズ ベスト」は、ここでも活きている。私の場合、基本はクミン、コリアンダー、カルダモン、クローブに置き、多くとも15種類を超えない。 

一番大切なのはカリーベースづくりである。大量のニンニク、玉ネギ、ショウガと最後にトマトを加えるが、これを炒めて炒めて、炒めぬくことにある。通常炒めるという作業の常識は、強い火力を用いた場合、20分を超えることはあるまい。キッチンで奥さんの作業を観察してみるとわかるが、たいていは15分程度、それも家庭用の細火でそんなものである。 

ところが、本格的カリーとなると、焦がさずにコゲ茶色になるまで1時間以上はかかる。私は1回40人前以上つくるので、次の日は手が上がらなくなるほどの重労働である。家内がぜひ教えてほしいと何回かトライしたが、もうこの炒める段階でギブアップ、と相成るのである。

詳しい作り方の記述が本旨ではないので省略するが、私のカリーの特徴としては、「カレーベースにセロリ、ニンジンのすりおろしを加えること」「油にはギーを使用すること」「水を使わずにトマトを主体とした野菜ジュース、牛乳、ココナッツクリーム、そして仕上げにヨーグルトを用いる」ことであろう。またピーナツクリームも、具によって使用する。

カリーの味は、辛・酸・苦・鹹・甘のうち、辛みが大切に思われがちである。しかし何度となく作っているうちに、実際には酸味が一番重要であることに気がついた。よい酸味はトマトやヨーグルトによって得られるが、私はこれに日本独特の味である梅干しの裏ごしを最後に加え、仕上げにレモン汁をわずかに絞るなど、独自の工夫を加えている。 

また、食べ頃については、スパイスの香味が新鮮なうちに供するということから、「その日のうちに食するという方法」と、スパイスの熟成を待って供する、俗にいう「寝かせる方法」の2通りあるが、私は寝かせ方式をとっている。季節によるが、4日、5日後に至福の味が訪れる。

カレーというものは

アロラ先生の出されたいろいろな料理書には「日本人ほどカレー好きな国民は世界に類がない」と書かれている。専門家中の専門家がいうのだから間違いはない。 

日本にカレーが上陸したのは1872(明治5)年。そして1930(昭和5)年、遂にSB食品のオーナー山崎峯次郎氏の手によって国産初のカレー粉が開発、発売されたのである。山崎氏の著書には、豊穣なカレーの香りがどうしても出せず、毎日が失敗と苦闘の連続であり寝てもさめても香りが頭から離れることがなかったと回想されている。しかし、偶然火を使うことによって見事な香りを出すことに成功、今日の繁栄を見ることになるのである。 

実際、オーディオにもよくこんなことが起こる。ひたむきな情熱と、絶対あきらめないという根気さえあれば、どんなに難しい製品開発でも、何かがヒントとなって必ず解決を見ることを、私は実地に何度も経験している。

憧れること40年 遂にライカM3を 

私のもうひとつの趣味は写真、カメラです。これは1992年の「サウンド・トップス」に載りましたが、その抜粋を掲載して締めくくることとしましょう。

「ライカを手にすることが夢だった」 パーレットから始まったカメラ歴 

写真道楽は田舎の中学入学と同時に始まった。上海から引き揚げる時、母がこっそりと隠し持って帰った小西六製(当時は六桜社と名乗る)の蛇腹式「パーレット」がカメラを持った最初である。

ベビーパールを誇らしげに使っていた同級生に負けじと、片っ端から女の子のポートレートを撮りまくっていたから、今考えると相当なマセ餓鬼だったのだろう。それが担任教師の知るところとなり、1年がかりで卒業アルバムを作らされるはめになった。当時学校お抱えの写真館のオヤジさんが、田舎では珍しく中野写真学校出のこともあり、東京生まれの私とは結構ウマがあって暗室作業をまかされ、次第に病膏肓に入る。

山口県立萩高校の一学期終了と同時に家庭の事情で単身上京が決まり、この際とばかり思い切ってヘキサノン付きの「レオタックス」を買うことにした。ラジオの組み立てで稼いだお金を充当したのだ。実際に函を目前にした時には、まるで天にも昇る心地がした。昭和26年である。

上海で亡くなった父が大のライカマニアで、休日にはいつも手入れをしていたのを見ていたゆえか、もうその当時から「ライカ」を手にするのが夢であった。ライカコピーの「レオタックス」はその前座であり、稽古台のつもりだった訳だ。このカメラは劇団時代、山水電気での広告撮影で活躍した。当時、日本のカメラはライカイミテーションからぬけ出すべく苦闘が続き、バルナックタイプも最後の時を迎え、次第に高級化が進んでいた。

ライカ党に刺激され、購入の決心を

オーディオ好きでカメラマニアの方は多い。評論家でも故瀬川先生を始め菅野先生、山中先生、井上先生、長島先生、高嶋先生などはいろいろな名機の持ち主で、伺った時には遠慮なく触らせていただいている。時にはカメラ談議に花が咲き、訪問の目的を忘れることすらある。 

 

昨年(1990)、高嶋先生とは某誌の取材でデンマーク、ドイツをご一緒に旅したことがあったが、そのカメラアイの確かさ、センスのよさには遠く及ぶものではない。先生は登山家としても著名なうえ、世界中を文字どおりマタにかけて精力的に廻り、旅慣れておられるが、まず空港でのいでたちからして驚かされた。完璧にドレスアップした私に比べ、失礼ながらよれよれのヒッピー風でスリや置き引きは絶対に近寄らぬ。有名な大学教授などとは考えもつかないだろう。そう見せかけて数百万円は下らぬ珍品ライカと名玉がリュックのポケットに、しかと収まっているという寸法である。 

 

ライカのボディは堅牢無比のチタン製、仕上げはアーミーカラーの凄い奴で、愛用の玉はツァイス・ゾナー21ミリの超ワイド。ライカとツァイスの合体。まさに夢の組み合わせではないか。後日、大パネルに仕上げられたダイレクトプリントを見てまた唸ってしまった。小枝の一本一本、小石の一粒一粒がいささかの曖昧さもなく見事にとらえられているし、何よりも空気感が凄い。女性の瞳もマツ毛の一本一本と瞳までが深い描写であり、とても35ミリ判とは信じられない。それでいて決してカリカリにならずオフピンのボケ味がなんともいえぬ品格を出している。先生の腕前もさることながら、なるほどこれが名機名玉といわれる所以だな、と納得がいった。 

 

カメラに限らず、メカと人が一体になるのは殊のほか難しいものである。人間同士の疎遠は、顔見合わせて話をかわせば、たちまちにして距離を詰めることができるが、メカはしばらく放って置くと心が通じなくなる。これはオーディオもそうだ。久し振りに引っ張り出したアンプやラッパが、ソッポを向いてなかなか機嫌を直してくれないことは経験する通りである。メカには心がないなどとタカをくくっていると、いざという時とんでもないしっぺがえしを喰らうことがあるから、くれぐれもご用心を。名機ほど、日ごろのつきあい方、愛情のかけ方が大切だと思う。 

 

憧れのライカを今日まで手にしなかったのは、まだまだ修練不足、おこがましいと自戒していたからである。それとひとつにはまだ夢にしておきたかった。カートリッジでいえばオルトフォンのSPUであり、それを使いこなすには、その高みに達していなければ目指す音にはなってくれない。 

 

欲しいものをすぐ求めず時をかけてポテンシャルを高めてゆく、それは必要なことであり、また楽しいものなのだ。夢はかなえばもう夢ではなくなってしまう。そう考えていた私だが、多くの方に刺激されてついに求める決心を固めたのである。40年が経っていた。

ライカⅢfかM3か 最後まで迷う

組子スピーカーの発表会で日本の伝統美を写したスライドを上映し好評を博したが、その画像は吾が「レオタックス」による。カメラの力の何と偉大なることよと思ったが、それでも私の頭の中から「ライカ」が消えたことは一度もなかった。そして待つこと久し、まさに夢のその日が来たのである。

昨年夏、ドイツ・カッセル市の中古カメラショップで美しいⅢfとM3の両方を手にした時は正直、迷いに迷った。機能美の極致といわれるⅢf(スクリューマウントの最終型)は、私にとってM型以上に魅力あふれた最高傑作品だったからである。しかし同道してくれたライカに造詣の深いRESTEK社副
社長のW・グラナウ氏の「眺めて楽しむだけでなく実際に使うなら絶対にM3
だよ」という助言を聞き入れて決めた。

M3は明るく大きくなったファインダーもさることながら、一番の革新はレンズマウントがバヨネット式になったことだろう。そして特筆すべきはシャッター音の静かなことで、これは正直驚嘆した。現在の進化したカメラでもこの静けさはちょっと見当たらない。M3は従来のバルナックタイプの改良型というより、まったく新しいカメラと見る方が正しい。帰途グラナウ氏が大切にコレクションしていた、ライカの設計者オスカー・バルナック氏の横顔が彫刻された記念メダルをくださり、「これを持っていいライカ使いになってほしい」と言われた時には心底から感動し、メダルに恥じない写真を撮ろうと誓ったのである。

仕事は遊び心で、趣味は命がけで 

M3は1954年に登場し、1966年まで12年間製造された。多くのライカファンが今日でも安心して古いモデルを使っているのは、製造元への信頼が裏切られないからである。また、どんな古い機種でも必ず修理が受けられる点もありがたい。 

こういうところは何もカメラに限らずオーディオ機器にもあてはまる。欧州流といってしまえば簡単だが、日本のそれとはあまりにも違う。道具に対する哲学の違いというのか、“モノ”の後ろに使い手、つまり人を思いやる心の深さが違うように思われてならない。 

さて、この時に買ったレンズは沈胴式のズミタール50ミリで1945年製だ。私が10歳の時に生まれたものである。新種ガラスを使ったズミクロンやズミルックスに比べると評価が低いようであるが、髪の描写などはしなやかで丸味があり、今のレンズのように針金状には決してならない。ポートレートでは自然な人の顔の丸味が出せる。 

良いレンズとのめぐり会いは、よい友人、よい連れ合いとのめぐり会いにも似ている。お互いよい味を引き出すには、相手と向き合った時の、わが心の有り様、持ち様で、自分の成長がなければ所詮レンズはただのガラス玉になり下がるだけだ。趣味とはそういうもので、だから『仕事は遊び心で、趣味は命がけで取り組め』という言葉が聞かれるのだろう。 

最近のカメラは誠によく写る。写るというよりカメラが勝手に写真をつくっている。このことはカメラが人間から写す楽しみを奪ってしまったことになる。カメラは人間が使う道具であり、決してカメラに人間が使われてはならないのである。これはカメラ、写真の世界だけではない。オーディオを趣味とし、オーディオ業界に身を置く者として、同様に厳しく考えざるを得ない問題ではあるまいか。 

時とともに道具が便利になり、しかも大量に作られ、簡単に誰もが手に入れられる。その結果、「押す」だけで安易に人生というかけがえのない尊いものを、考えもなく「消費」しているのではなかろうか。まことに恐い話ではある。