ユーザーとメーカーの
相互理解と信頼の大切さを肌で感じた。
現場感覚に基づく哲学は、
かげがえのない財産になった。
この章では、私が携わったお客様とのコミュニケーションについて書いておきましょう。製品の広告宣伝、ショールームにおけるサービスなどのことです。
サンスイの広告というと「ああ、浅丘ルリ子の……」と思い出される方がいまでも少なからずおいででしょう。またサンスイの商品イメージといえば、先述のブラックフェイスのアンプと組子のスピーカーであり、それとこのキャンペーンですね。この三つは、オーディオ業界の枠を越えて日本の広告宣伝史に残るものだろうと思います。
しかし浅丘ルリ子さんのテレビCF(組子スピーカーを用いたセパレートステレオのコマーシャル)は、社内では“これぞサンスイの宣伝”として位置付けられたことはありません。それはあの後にセパレートステレオから撤退を決め、会社の進路を単品コンポーネントに移したからです。とはいえ、1968(昭和43)年11月にスタートしたフジテレビ「夜のヒットスタジオ」ではスポンサーとなり、浅丘さんを起用した「情念の世界 組子のサンスイ」のCFは大当たりを取り、セパレートステレオではトップを走るパイオニアの座を奪わんばかりの勢いでした。
にもかかわらず、どうして販売トップの座を奪えなかったのか。それは生産が間に合わなかったからで、実際はパイオニアさんの心胆を寒からしめただけで終わっています。それでもこれはテレビの威力と浅丘さんの魅力、マス広告の重要性を業界人に痛感させた出来事でした。
セパレートステレオから撤退する少し前の時点で、サンスイの宣伝の基本方針は決まっていました。それは他社とは一線を画するものでした。
ステレオ購買層全体をピラミッド図に描くとしましょう。上から三分の一の小さいデルタ層が今後のサンスイの対象で、そこへ一貫して主張し続けることをメーカーの姿勢としました。言葉を替えれば、オーディオのことがよくわかっている人たちに向けて間違いのない信頼できる製品を届けるということ。そのためのメッセージがコンポの広告でした。すなわち製品は「専門家が使っても一流と評価されるもの」であり、「サンスイは世界一のアンプをつくる。それは他社には真似のできない個性を打ち出したものだ」という広告であるべしというのがポリシーでした。
サンスイの場合、製品イメージと企業イメージは常に表裏一体です。アンプのサンスイ、というイメージづくりには完全に成功しており、「サンスイ」と「アンプ」は分かちがたいものになっていました。これは1960年代後半の成長期にイメージが確立され、経営の苦しいときでもアンプへの評価は途切れることなく高い状態が続きました。極論すると、サンスイは“世界一のアンプを作るメーカー”というイメージが浸透していれば十分というのが社の方針だったわけです。事実マニアの市場で、サンスイのコピーは他社に比べて説得的な姿勢において抜群であると、関係者はみんな思っていたでしょう。
少し内側の話をします。当時のサンスイ宣伝部は8人。これは数よりも“知恵を出す人間の凄さ”で勝負しようという心意気でした。知恵を出すためには絶えずミーティングです。そこでは各自の制作企画に対して、少しでもプラスの知恵を付加させようという、挑戦することが基本姿勢でした。後ろ向きの動機はまったくないからチームワークは深まります。ミーティングが宝箱やオモチャ箱になっていて、誰かが出したアイデアを誰かがいただいて膨らませていくというものでした。
また、宣伝部では「マトリックス業務」という珍しい業務分担の体制も敷いていました。従来は、テレビ担当、印刷物担当というようにメディア機能別に担当を分けていました。これはメディアにより制作企画の様子がまったく違うからです。しかし、宣伝活動というのはモノ(商品)があって初めて成り立ちます。メーカーの論理でいえば、モノの理解の最も深い人間がいちばんよい宣伝コンセプトを創ることができる。こう考える宣伝部長(つまり私です)のもとに各自を商品別担当にしました。全員がディレクターというわけです。これがいわゆる縦のラインであり、基本の担当です。一方、専門家としての手腕が要求される横のライン、例えば印刷に関することは印刷のベテランが業務を見るという体制を併せて取りました。それを「マトリックス業務」と呼んだのです。この縦横の体制を採用したことにより、宣伝部は事業部の請負い機関ではなくなり、商品企画と宣伝とのクロス関係が非常に良くなりました。
余談ですが、浅丘ルリ子さんのCF以来、サンスイはマスコミ広告、なかんずくテレビCFや交通広告に打って出ることに大胆になりました。ただし、会社の規模からいって、予算が有り余ってなどいません。媒体の用い方をきめ細かく計算し、効率よくプログラムし、出稿先の媒体を拝み倒してでも当社の姿勢を理解してもらおうと努力しました。資金力にモノを言わせた広告宣伝をやるには程遠かったからです。
次は対面でのユーザーサービスについて。これは新宿のショールームのことから始めましょう。そもそもショールームというのはユーザーとの直接コミュニケーションの場です。そこではどういう形のPR活動が最も魅力的なのか。1963(昭和38)年6月、山水は東京・新宿三光町に「サンスイショールーム」を開設します。宣伝課長だった私がオープニングまでの責任者でした。いろいろ考えて各種催事を行い、サンスイの新宿ショールームは「成長企業らしからぬ腰を据えたパブリシティ活動を行っている」と評判を取り、当時のオーディオマニアの“聖地”として話題となりました。
そして1974年11月、よりスケールアップした「サンスイオーディオセンター」を新宿駅南口から徒歩5分、甲州街道沿いの明宝ビル1階にオープンします。その開設の目的について、商品企画部長であり、ここの所長も兼任となった私はこんなふうな一文を記しています。
「オーディオセンターはサンスイの顔であり、ユーザーとサンスイを結ぶ重要な接点と考えています。したがって、単に商品の陳列場所とか顧客の開拓場所に留まらず、サンスイの企業ポリシーや商品づくりの姿勢、技術開発や品質管理の考え方などについて..言葉を代えて言えば、『サンスイのオーディオに対する姿勢と情熱』をユーザーの方に正しく、しかも充分にお伝えしたいと考えています。また、ここはユーザーのニーズがいち早くキャッチできるところでもありますので、貴重な情報をただちにフィードバックし、商品づくりに反映させることを心がけています。
大切なことは、ユーザーとメーカーの相互理解と信頼であり、ここで催されている様々な催事を通じて、心の触れ合いを深めていきたいと念願しております。幸いにしてオーディオに深い愛情と秀れた見識を有する講師の方に恵まれており、毎日のように意義ある番組が実施されております。最近では、1日300名近いコンスタントな入場者があり、先日のJBLフェア(1977年)では4日間で実に3000人以上という熱心な入場者を記録しました。今後はいままでの諸講演活動に加え、サンスイ独自の「生録会」や「演奏会」などを実施してゆくつもりです。どうかご期待ください」
その後、矢継ぎ早に日本各地にこれを広げ、活発な活動を展開していきました。セットステレオ全盛の当時とすれば、かなり思い切った投資であったはずです。しかし高級コンポーネントの普及に執念を燃やす専門メーカーが、そのポリシーを示す重要な拠点をショールームづくりに置いたことは、時間とともに次第に評価されていきました。こういう面でも、サンスイは“サンスイならでは”の特異性を発揮していると言えるでしょう。
コラム:各部屋の解説(1977年当時)
それでは内部はどうなっていたのか。大きく4つにわかれておりました。順にご説明しましょう。
メインのスペースとなるショールームは約240平方メートルあり、常時40の座席が用意されています。正面のステージはサンスイとJBLの民生用スピーカーシステムが20組以上。名器パラゴンからLM─011まで、ところ狭しと並べられており、ボタンひとつで自由にユーザーが聴き比べできるように配線されています。
これを駆動するアンプは、左側の陳列棚にセパレート、プリメインアンプ、チューナー、レシーバーの順に配列されており、これも好きな組み合わせで音出しが可能。この他、トーレンスやサンスイのプレーヤー、ウーヘルのテープデッキなどによってソースも選ぶことができます。
このショールームでも時折大きなフェアが催され、生演奏会、JBLフェア、サンスイフェア、販売店との共同講習会やコンサート、QSファンクラブの集いなどを行い、ファンの方々を喜ばせていました。ひときわ印象深かったイベントは、JBLの最大級のプロ用モニタースピーカーシステム4350を使ってのデモンストレーションです。
1977年当時、東芝EMIレコードのミキサーをしていた行方洋一さんによるここでの人気番組「サンスイQSサロン」の中で、録ってきたばかりの蒸気機関車の音をショールームで思いっきり鳴らすことを企画しました。
サンスイから当時出たばかりの最高級パワーアンプBA─5000をBTL接続で600Wのモノアンプとして使い、JBL4350スタジオモニターを4台接続するという無茶をやりました。タイトルは「耳が勝つか、スピーカーが勝つか、140dBの音への挑戦」というものすごい大音量勝負です。
三重連の蒸気機関車があえぎあえぎ山路にさしかかり、吹き出す蒸気、激しいドレンの金属音、小石が粉砕され、飛び散る音。現物以上のすさまじい迫力に、思わず逃げ出したくなる最大音圧エネルギー。そして許容入力の限界を超えた歪が原因で、アンプでなくスピーカーのボイスコイルが、全て一挙に焼け飛んだのです。しかし全員が、あらためてJBLの実力を知ることになりました。壊れる前の音の凄さから「恐るべきスピーカーだ」というのがみんなの一致した結論でした。
②第1試聴室(スタジオ1)
ここは音響デザイナー、加銅鉄平氏設計による本格的なプロフェッショナル仕様の試聴室で、完全二重防振、浮き構造が採用されています。面積は56平方メートルで、最大50人が収容でき、社内ではここを「オーディオ道場」と呼んでいました。
音響設備も第一級で、JBL4350を始め、最新鋭機4343、4333A、4331Aや、サンスイの製品SP─G300などが常時音出しできる体制となっています。もちろん大型装置による極めてグレードの高い4チャンネル試聴も常時可能です。
オーディオセンターのめぼしい催事は、ほとんどこの部屋を使って行われており、オーディオセミナーの講師をつとめたのは菅野沖彦さん、瀬川冬樹さん、岩崎千明さん、相沢昭八郎さん、黒田恭一さん、江川三郎さん、土屋赫さん、児山紀芳さん、青木誠さん、小川正雄さん、行方洋一さんといった著名評論家の先生方でした。
その他フィルムコンサート、リサイタル、音楽サークル活動、研究会や公開録音など、多い月にはのべ70時間以上使用されていました。あらかじめ申し込めば、誰でも使用できました。またプログラムは毎月25日に次月のものが発行されており、オーディオ販売店でも入手できました。
マルチウェイ方式のバランス試聴はもとより、フロントロード型、バスレフ型、密閉型などエンクロージャーと、ウーファーの相性の実験も人気が高まっていた。第1試聴室と第2試聴室との間にコントロールルームがあり、ここではソースの送り出しと記録が専門の係員の手によって行われています。
ショールームとスタジオの間にあるのがインフォメーションルームで、ここではオーディオ全般にわたるあらゆる相談が受け付けられています。
ベテランのテクニカルアドバイザーが親切に対応し、サンスイの製品にとどまらずどのような問題にも応じており、サンスイのオーディオに対する愛情と心構えが伝わるようになっています。この部屋の右手には資料棚があり、オーディオと音楽、それにホビーと呼ばれる類の参考書が400冊以上揃えられており、自由に閲覧できます。利用者も大変多く、いつも混み合っています。また、ユーザー同士の不用品交換「売りたし買いたし情報」が掲示されているのもなかなかユニークで、他のショールームには見られないものでした。この他、細かく見てゆくと、サンスイならではのオーディオセンスが随所にあって“百聞は一見にしかず”と口コミで言われておりました。